第18回[5月22日〜5月31日]

初の全国放送もおわり、すこしだけバーンアウトっぽさがある。つってもいつもそんな感じだけど。このあいだ4月が終わったと思ったらもう5月が終わってしまった。体感3日間くらい。時間の過ぎ方が鬼。日常が鬼。炭治郎、どうにかしてください。

5月22日

今日は午前中から職員研修。園の保護者でもある救急医療のドクターに講習をしてもらった。なんという贅沢。
内容もわかりやすく、具体的なシチュエーションについての質問にも丁寧に応じてくれたので、今後の保育活動のなかでかなり参考になる。ほんと恵まれてるなあ、ウチの園は。

午後からは妻と子どもがむこうの実家に行ったので、明日の夜まで自由時間になった。溜まってたデザインの仕事と、DIYと、サッカー観戦と、いろいろと忙しいぞこりゃ。

テットーコーヒーにて一息。店主の石川さんから「ラジオ聴きましたよ」との声。ありがたい感想をいただく。
「沖縄のなかにある様々な視点や社会課題などもちゃんと描きながら、「ゆっくり」ということがもつ豊かさが伝わってきた」と。嬉しいなあ。嬉しい。

友人知人からも、たくさん感想をもらえて嬉しい。
ここに全部書き出すと大変だからできないけど、ほんとは全部公表したいくらい。
県外の方からも好意的なコメントが届いたし、同年代だけじゃなくて上の年代の人たちにも響いたようで、幅広い層に届く、っていうのは自分にとっては縁遠いことだと思ってたのだが、どうやらわたしにもそれができる才がどこかにあったのだな。
あまり変なこだわりを強くしちゃうと自分の可能性のレンジを膠着させてしまう恐れがあるというのを身をもって思ったよ、今回。
ある友人は当初放送を聴く前は私が「ほっこり系」を作ったことに違和感が強かったようで「兼島にそれやらす意味あんのか?持ち味そこか?」なんて思っていたらしい。それが放送を聞いて「アリ」になったのだという。
ほっこり系だろうがなんだろうが、自分自身の良さを出すやり方はきっとあって、まだまだ自分自身がその術を知らないだけだ。いろいろ探って試して、そうすることで自分の幅も広がっていくと思えたら、この仕事をもっともっとやっていきたいといま強く思っている。
ので、仕事ください。お金も欲しいし。

緊急事態宣言も出て、ディレクターとの打ち上げもなかなかできずにいる。
早いとこやって、そんで放送の話をしたい。そしてできれば次の企画の話をしたい。まだ何も決まってないけど、そのつもりでいますよ、というアピールをしたい。ある意味、営業活動である。

夜からアトリエにて、姉夫婦の会社から頼まれていた家具を製作する。
あまり時間が取れないからちまちま進めているのだが、なんせ材料がメイクマンに売ってなかったりするから困るのよね。入荷待ち。
時間ある時に限って在庫ないの困る。明日は朝からマッピーとのおしゃべりだし、昼はまだできていないデザインの仕事をやらないといけない。夜は妻の実家に行かなきゃなので、意外と時間がないのである。うーむ。メイクマンが24時間営業ならいいのになぁ。絶対ないけど。

5月23日

朝からコメダに来ているのだけど、7人連れの観光客(男性4人、女性3人)がうるさくて仕方ない。しかも席が近い。まじでうざい。店員いじりとかしだすし、まじで不快。
なにがそんなに不快なのだろうか。声量か? 他のお客さんがいるかどうかということに対して頓着がないからだろうか。その「他者への配慮」みたいなのがないからだろうか。私が彼らにとって「他者」として認められていないことに不快感を感じているのだろうか。

5月24日

昨日の昼過ぎから具合が悪い。本当は昨夜は妻の実家に泊まりにいくつもりだったのだが、それもキャンセルしてしまった。
今日も朝は起き上がれず、10時をすぎてようやく動き出した。いまこの文章は朝食兼昼食を摂るために入った自宅近くのファミレスで書いているのだけど、だからなんだということだけど、なんとなくそれは記しておきたかった。
ちゃんと午前中のうちでは動けたという自分のための記録。
子どもが生まれたからといって鬱が治るわけではないし、鬱だからといって飯が不味くなるわけではない。
チェーン店の安定的な美味しさやコンビニのジャンキーな品揃えにはホントに助けてもらっている。子どもには健康的な食事を心がけたいけど、私はなんだかんだファミレスやコンビニを今後も最大限に活用するだろう。
そろそろ正午になるので店を出ることにする。

親になる、というのはどういうことなのか。自分自身の幼さ、未熟さ、ままならなさを保持したまま他者と暮らす、他者を育てる、ということ。到底完璧には程遠い人間のまま、子どもには偉そうなことを言ったりすることもでてくるのだろう。

子どもは、わたしや妻の所有物ではない。でも、だからといって放り投げておくわけにはいかない。
彼には健康に育ち、主体的に楽しく生きていく権利がある。その権利を保障する義務がわたしたち親にはある。
権利と義務はワンセットなんて言うが、それは自分の権利と他者の義務がワンセットであるという意味で、それは言い換えれば他者の権利に対して自分が義務を負う、ということでもある。これは『ふだんづかいの倫理学』に書いてあったこと。
考えてみれば、たとえば「義務教育」なんていうのは、子ども自身が「教育を受ける権利」と親が子に「教育を受けさせる義務」がセットになっていて、なるほどそういうことね、とガッテンがいく。
彼が主体的で健やかで楽しく生きていける術を、われわれは彼に提供しなければならない。そのような環境を準備せねばならない。

5月27日

『急に具合が悪くなる』の「舞台裏」をパッと開く。そこにこういう言葉があった。

「具合が悪い人の日常は、具合が悪いことだけで埋め尽くされているわけではなく、そこに異なったものが入るスペースが残されています。それは具合が悪くなるにつれ、どんどん少なくなるかもしれないけど、具合の悪い人と、そうでない人たちが互いの間でそれを守り続けようとすること。そこに出会いの中で生きることの意味がある」(238頁)

鬱でキツいキツい言いながら、死にたさを漠然と感じながら、子どもの面倒を見たり脚本を書いたりという行為を遂行する。その時間を守る。
自分の生きている時間が「具合が悪い」の一色に染まらないために。
ややもすれば、「具合が悪い」以外の時間は「やらなきゃいけないこと」に充てないといけない、そういうふうに考えてしまう。でも、本当に守るべき時間はなんなのか。それをきちんと考えなきゃいけない。坂口恭平が言ってることはこういうことか。

5月31日

『うつの医療人類学』の続きを読もうと思っていたのに忘れてきてしまった。ぐぬぬ。
この本の文脈でいえば、わたしの鬱についての「物語」は「女性的」なものといえる。
欧州においては鬱は「女性の病」などといわれるように女性に多い。
でも日本では逆で、男性が多い。その症例の典型が、「仕事で頑張ってたけどプレッシャーとか過労とかで潰れそうになった」みたいなやつ。
鬱を仕事と結びつけるのが「男性的」な鬱の物語であり、多くの男性の語りがこのような定型に近づいていくのだという。
逆に女性は多様で私的な語りをする傾向にあるのだという。
つまり現代日本の鬱病観は仕事と結び付けられたものが優勢であるっちゅうことで、考えてみればわたしが受診したときにも医師はわたしの語りを「仕事」の文脈に落とし込んでいた。それでわたしは医師に言葉が届いていないと感じたのだろう。
わたしは私的な語りのなかで鬱を語りたい(そのなかに苦しみがある)。

躁鬱の波に揺られながらも子育てをするためには、サバイバルスキルを高めなければならないが、これに社会的スキルを入れるかどうかは悩むな。
人とうまくやっていくことは大事なことであるのは違いないけど、それはとても苦しいのです。
ていうか苦しみのほとんどはこれなのです。うまくやるってなんなんだ。

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