映画『遠いところ』についての感想です。
ちょっと前に見てたのだが、特に感想をどこかに記すこともなく時間が経っていた。というかそもそもどこかに書く予定もなかったのだけど。
だがちょっといろいろあって、書くことにした。
最初に断っておくと、結構批判的な内容になっている。
一応ちゃんと評価する部分はしているし、世に問われるべきテーマを描いている意欲作だと思う。映画自体がダメだと言いたいわけじゃないこと、観る意義のあることはあらかじめ付言しておく。
作り手の覚悟は何処?
監督が県外出身で、男性で、そういう立場の人が沖縄の女性、しかもこのような境遇にある女性を描く。そのこと自体がもつ暴力性というものは百も承知で、それに恐れながらも作らなければならない、そう思ってメガホンを取った。そういうものだと私は思っていた。だからこそいろんな批判も受け入れるだろうと。いろんな声を聞き入れ、今後の作品に反映されていくだろうと。
この映画についていろいろ批判もでるだろうけどそれもちゃんとわかったうえで作ったし、それでも足りなかったところはちゃんと受け止めて次に生かします。そういうふうに作ったのだろうと。
自分がこの問題を描いていいのだろうかという罪悪感と、それでも作らなければという覚悟。その両者が常にせめぎ合いながこの作品は作られたのだろうと、そう思っていた。
でも実はそうじゃないんじゃないか、なんてことを思い始めている。そのことがこのテキストを書く大きな動機になったんだが。
ぴあのインタビュー記事を読んだ。《こちら》
いくつか引用。
(沖縄で暮らす若者たちを描いた書籍や研究などを読み)「その本に出てくる女の子たちが僕に近い感覚というか……自分と重なる部分があったんです」
「今回の舞台は沖縄ですけど、そこにある問題は一緒なんですよね。でも、なぜ沖縄という場所でこのような状況が可視化されているのか……なぜかはわからないですけど『自分がやらなければならない』という使命感のようなものが途中から芽生えていました。」
「実際に取材していくうちに、沖縄の女の子たちと自分がシンクロしてきて、ある日、頭の中に急にアオイという主人公が出てきたんです。アオイの出現によって、自分や自分の母親、自分のおばあちゃん、それまでに取材で話を聞いてきた沖縄の女の子たちの話や顔がパッと浮かんで、現在の物語になりました」
ぴあ|「俳優が演じることで“本音”に迫ることができる」監督が語る『遠いところ』
結構ピュアに、自分に近いとか、そこにある問題は一緒とか、自分がやらなきゃとか、言えちゃうんだと。そこに畏怖が見て取れないことにとても驚いた。マジか、と。身も蓋もない言い方をするなら、信用できないなって。
支配・抑圧構造の欠落
映画のコピーには、「映画、ではなく現実」とある。たしかに、登場人物たちの会話(使用される単語やイントネーション、内容)やその生活描写はとてもリアルだと感じた。俳優さんたちの仕事はとてもすごかったと思う。ここはどれだけ強調してもいい。
そんな凄惨な「リアル」を描き、それを見ることで「自分のことが描かれてる」と救われたような感情を抱く人もいるかと思う。
不可視化され、声をあげることも抵抗することもできず、諦めて生きてきた。でも、スクリーンに自分がいる、そう、私はこんなに苦しかったのだ、その苦しさを見てくれている人がいる、もしかしたら誰かに私の存在も届くのかもしれない。そういう勇気みたいなものを抱いた人もいるかもしれない。
そういう人が一人でもいるのなら、この映画はとても大きな意義があるといえると思う。
けど。たぶんだけどこの映画に対する最も多い批判は、「構造が描かれていない」という声だと思う。沖縄と日本と、それからアメリカとの関係。琉球処分から続く中央支配、そして戦争。アメリカ統治、復帰、基地問題。経済停滞、貧困。
それらをもたらした歴史的な経緯に触れていない、描いていない、そこが批判ポイントになるのだと思う。
それに関しては全くその通りで、だからもう私はそのことは書かないけど。もっと詳細に解像度高く指摘している人がいるだろうし、そっちを読んだり聞いたりした方がいいと思う。
その構造を浮かび上がらせずに狭小な「世界」だけを描くのなら、彼女が行きたいと(生きたいと)願う「遠いところ」は、また別の狭小な「世界」であって、遠くにある同じ現実である。
そうじゃない、もっと広いところ、もっと自由なところ、そこが垣間見れるからこそその「遠いところ」という言葉が響いてくるんじゃないの?なんて思ったけど。
ただこの映画では、一応アオイの生きている「世界」の「外」を描こうとした瞬間がある。要は政治批判的なシーンがある。
実の父に会いにいく車中で流れているラジオ音声。そこで玉城デニー知事の言葉として、「誰ひとり取り残さない」というメッセージが流れた。
その「誰ひとり取り残さない」が実現されていないことへの批判というのはわかるし、そこは県政としての重大な課題というのはその通りだ。「取り残されてるぞ」と提示する機能はじゅうぶんに果たしたと思う。
でも、はっきり言って弱い。腰が引けてると思う。そのテーゼ的なものを論って批判して……え、終わり?
いや、この映画で描いていること、わざわざ時間も労力もかけて作り上げた「リアル」の宛先は、県知事だけ? そうじゃないでしょ。
この「リアル」が描いているのは、この狭小な「世界」とは、つまり「家族」でしょ?
政治や経済のさまざまな問題が「家族」という小さな単位に押し込まれている、その掃き溜めになっている、それこそを描いているんじゃないの? そうやっていろんなことを「家族」に押し込んでいる人たちが、この国の政治の中心にいるでしょ? そこに突きつけるべき映画なんじゃないの?
この「リアル」さは、それだけのポテンシャルを持っていると私は思ったのだけど。
つまり現政権をはじめとした保守系政治家たちの価値観、「伝統的家族」とやらでさも美しいかのように語りながらすべてをそこに押し込んで掃き溜めにしようとする政治のあり方。本来はそれこそがもっとも問うべき対象ではないのだろうか。
たとえば前に自民党が出してきた改憲草案では、現状の24条に文言を付け加えて提示した。
「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」。
これをなんか「美しい日本」の象徴みたいに捉える御方もいらっしゃるでしょうが、いや、これ、困ったら自分たちでなんとかしろよ、ってことでしょ。これ憲法に書き込むって何? ていうか、立憲主義ってご存知です? 憲法ってあんたらを縛るためのものなのですが?
とまあいろいろ読んでいくと止まらなくなるのでこれくらいにするけど、要は家制度的なものを復活というか強化したいわけです、政権は。
政策にも、たとえばコロナの給付金も個人じゃなくて世帯主に振り込まれてどうこうなんて批判もあったけど、要は社会を構成する基礎単位を個人ではなく家族と捉えているというか、少なくともそういうふうにしたいわけですよね、政府としては。
で、貧困とか、子育てとか介護とかもそうだけど、誰か個人が苦境に陥って身動きが取れない時も、「家族でどうにかして」というふうに言うわけです。
そういう「家族主義」的な考え、方向性。それに対して、「あんたらがやりたかったのはこれか? 実現したいのはこういう社会か?」って、そういう問題を提起するものじゃないの?
その手前の県政だけが宛先になっており、その奥までこの映画のメッセージを届けようとしていない。申し訳程度の「政治批判」になってしまっているし、はっきり言って「腰抜け」である。
アオイのような人物からもっとも「遠いところ」にあるであろう政治の中心に、そこにこそ訴えるべき相手がいるのだと思うのだが。
明確な批判的意図をもって挿入された県知事のコメントや、児童相談所職員らの言葉がけや態度。そこをわかりやすく描くのを優先し、沖縄の「外」というか「上」というか、そこへ向けた視座が欠落し、決定的に隠蔽されてしまっている。
そのせいで、作中に時折映り込む基地のフェンスや、聞こえてくる戦闘機の音が、単なる「沖縄っぽさ」の意匠に成り果ててしまっている。
問題を沖縄の中だけに閉じ込め、県内に境界線を引き直すという作業にこの映画がなってしまっていないだろうか。
児相のこと
児相職員のことで思い出した。とても細かな台詞のこと。
職員が家を訪問した時、「沖縄市児童相談所の者です」と言ってたんだが、重箱の隅をつつくような感じに読めるかもしれないが、沖縄市は児童相談所をもっていない。
たしかに沖縄市にコザ児童相談所というものがあるが、あれは沖縄県の管轄である。市町村レベルでは児童相談所を設置できない。
名称そのものを使うのがアレなのでちょっと変えて、コザだし、沖縄市でいいだろ、っていうことなのだろうが、観客にとっても瑣末なことに映るかもしれないが、ここはツッコませてもらう。
沖縄県には、中央児相とコザ児相の二つしか児童相談所はない。厳密には離島や北部にも分室的なものがあるが、基本的には二つ。
なぜ二つしかないのか。そしてなぜ私がそのことにこだわるのか。児童相談所というものは、「一時保護」や「措置」という強い権限・権力を所持している。市町村レベルにはその権力は持たさず、県としてかなり限られたところにのみ、限られた場合にのみ、その実力は行使される。そこは慎重に設計され、運用されている。
だからこそ、「沖縄市児童相談所」としていることへの警戒をしてしまう。ちゃんとリサーチしたの? という疑問だけでなく。
安易にアオイvs行政という構図を持ち込んでいるんじゃないのか? 対立を明確にするためだけに、あるいはアオイを窮地に簡単に追い込むためだけに「行政」という装置を登場させたのではないか? とても「機能的」な装置になってしまっていた。
児相に限らず、福祉行政は(どの行政もそうだが)法律や条例に基づいて運用されている。そこで働く人たちは意外と結構やさしいというか、本当にいろんなことに悩み、考え、当事者の声を汲み取ろうとしたり慮ったりたり、そういうふうに仕事をしている(そうじゃないように見える人もたまにいるけど)。
別に彼らを擁護したいとかそういうことではなく、そういう行政職員の「想い」も虚しくアオイたちを救えない、その困難さや無念さを描くことで、同じ地域に暮らしながら、手の届く距離にいながら、どうにか手を伸ばそうと差し出しても掴めない、それくらい「遠いところ」にいる、というふうにタイトルの含意もさらに豊かになったのではないだろうか。
(ていうか、終盤の、一時保護施設のあのセキュリティとかどうなってんの? イヤイヤイヤ……ってなっちゃったよ)
(ほかにも、たとえば弁護士が示談金の話しかしなくて、すぐに払えない場合こういうような方法もありますよ、とか提示しないとかさ。まあ、それしちゃうと物語的にアレなんだろうけど)
トリビアルなことかもしれないけど、「沖縄市児童相談所」は、もしかして「沖縄市家庭児童相談室」的な意味合いだったのかな、と一瞬思ったが。でも、それだと作中で子どもを連れていく(一時保護する)という権限はないから、やはり児相だろう。
アオイが未成年でありながら水商売をしていたことで逮捕?補導?されたけど、たぶんあの時点で家児相とかに上がってくる案件だろうな、などと思った。
それで相談員が何度か家庭訪問したり、アオイ自身や祖母や義母と面談したりして一時保護とかっていうふうになるだろうから、ああいうふうに突然家にやってきて連れ去っていくみたいな描き方をするとやはりちょっと違和感を覚えてしまう。そういう強い権限があるからこそ慎重にやるんだけどな、って。
まあ、アオイ自身の見ていた世界、というふうに解釈するならそうなのだろうが。
余談だが。私は仕事柄福祉行政を担っている窓口の職員と仕事でやりとりすることも多々あったりする。
さっき児相のこととかも書いたけど、行政の職員はその背景に法律や条例がある。それに忠実な人は、なんかイメージ的に「杓子定規」的というか、頭の硬いという感じがする。
けど実際のところ、必ずしもそうとも言えないというか、ある種「人間的」な人の方が厄介なこともある。
条例の文言から逸脱し、「人間的」判断によって支援から外れてしまう人、たとえば「努力や我慢をすることも必要」とか「慣れれば大丈夫」とか、担当がそういう価値観を持ち込んで市民が福祉から排除されてしまうということもある。
そういうときに私は決まってブチギレていた。行政職員としては条例文に則って、その解釈の上で仕事をしろと。
条例上、支援の提供が難しい場合にはその解釈によって該当できないか吟味するし、場合によっては市に掛け合って特例で認めてもらえないかを尋ねたりもする。
「人間的」な判断で支援から外れてしまう場合、私は例えば憲法25条を取り出したり、子どもの権利条約を取り出したりして、対抗することもあった。
福祉の現場は人と人とが相対する具体的で直接的なやりとりの場だが、運営の場では「文字列」というのが重要だったりするわけです(だからこそ憲法に市民への命令を書き込もうとする意味不明な輩も出てくるのだろうが)。
まとめ?
いろいろ書きたいこともあった気がするが、もうわかんなくなってきた。なんだっけ。
たとえばさ、大麻のシーンなどはその後に出てくるどのシーンとも有機的なつながりがなく、単に劣悪さや悲劇さを強調するような使われ方になっており、なんかケータイ小説的な「悲劇の盛り合わせ」みたいな感じになってしまっていた。もうちょっと上手く盛り込めなかったのだろうか。
とか書いてたらネチネチした感じになってくるので、大きな話に戻ろう。
最初にも書いたけど、県外の男性監督が、沖縄の貧困女性を描く。
その暴力性への自覚というものが当然あるはずだと思ってたのだが、実はそうでもないかもしれない。これがこの文章を書く動機だった。
そういうふうな観点から思い返してみると、これまで書いてきたように、沖縄で起きていることの問題を「沖縄の問題」として矮小化して描くことで、「本土の男性」に跳ね返ってこないような作りにこの映画がなっていやしないだろうか? 穿った見方だろうか。
これは沖縄だけの問題ではない、という主旨のことを監督も述べているけども、それすらもなんというか、跳ね返りを巧妙に避けてるというか、あるいはあらかじめその危惧が取り除かれているような気がする。
この映画の全国公開はもうはじまっている。
これを県外の人が観たとき、どう感じるだろうか。
「沖縄でこんなことが……。これはみんな見て、知らなきゃいけない」みたいな感想になるんじゃないか。わかんない。単なる予想だが。
(ここから無礼で不遜な態度で書きます。)
これってさ、県外の人が抱く「かわいそうな沖縄」を助長するだけなんじゃないの?
「まずは知ることから」ってことなのかもしれないが、その先に行かない。「まずは」も「から」も形骸化して「知ること」だけが機能する。その機能によって、観客は免責される。
いつまでこの構造が維持されるんでしょうかね。
仕方ないことなのかもしれませんね。まあ悲劇的なことは「仕方がない」の合間にいつも起きるんですけどね。