第25回[7月11日〜7月17日]

梅雨も明けてクソみたいな暑い日が続いている。気温も社会もクソばっかりだ。クソクソクソ。口からクソを吐いてしまう。というよりも正直なことを言えば、ここに書くコメントがあまり思い浮かばないというだけという説もないわけではない。でも考えたらいつも内容なんてないんだから気にしなくていいという説もないわけでもない。

7月11日(日)

朝から頭痛だ、困っちゃう。今日は県外劇場から依頼があった作品についてキックオフミーティング。
えらい大人の方々とお話しするからすこしナーバスになっている。大丈夫だろうか。大丈夫だろう。きっと。うん。

ミーティング終了。いい時間だった。いい作品をつくれるように頑張りたい。
まずはなにからはじめるべきか。うむむ。
とりあえず、事件が起きた場所をめぐってフィールドワークしたい。それと併せて博物館の館長からいろいろ話を聞きたい。あとは、復帰前を知る人へのインタビューかな。両親にちょっと聞いてみよう。あと、原点のマスターに聞いてみてもいいかもしれない。
でもお店始めた当時はすでに本土復帰をしていたはずだから、ちょっと微妙ではあるかな。でもあの当時の話とかは聞くのに無駄なことはないだろう。

7月12日(月)

昨日のリモートミーティング、すごいメンツのなか参加したけど、うまく喋れただろうか。なんかとっ散らかった語りになっちゃったけど、まあ仕方ない。あれほどの人たちだからいろいろ読み取って汲み取ってくれるだろう。
沖縄をテーマにした作品を県外でつくる、そこに沖縄在住の劇作家として参加する、っていうのはとても意義深いものだけど同時にすごくプレッシャーを感じる。恐れ多くて慄いている。
でもこういうふうに県外制作の作品として「外」の位置に立たないと、沖縄で過ごして感じていることをなかなか相対化できない。日常ではなかなか自分が「沖縄人」であること、「沖縄人とは何か」ということを意識しない。基地でも戦争でも、どんどん遠いもののように感じてしまうことがある。
いや、その存在を感じなくなってしまっていて、時折思い出して「遠いなあ」と感じるってことだ。ちょっとメタ的な視点に立たないと気づかない。だから「外」が必要なのだ。
でも「外」だからといって沖縄のことを正確に描けるかといえば、そんなことはない。
複雑だし、当たり前だけどいろんなひとがいていろんな価値観や考え方があって、だからそれらを全て描くことはできないし、沖縄人を代表した表現なんてものにはならないし、そんなものは存在しない。
何かをいうことは、何かを言わないことであり、そのときこぼれ落ちたり蓋をしてしまう意見というのが絶対的に出てきてしまう。そのことをちゃんと引き受けた上で作品を作ること。作者としてその難しさを受諾し、批判はしかと受け止め、進んでいかなければならない。大変だなぁ。頑張ろ。

眠い。起きる。
今日は昼間からわかこさん舞子さんの二人ともアトリエにいて、しばし談笑。のち、わかこさんは衣装づくり、舞子さんは平田オリザの舞台DVDを観劇、わたしは岸政彦の『はじめての沖縄』を読んでいる。
みんなバラバラのことをしつつ、時折ダラダラとおしゃべりをする。この空間がもともと理想としていた状態だ。なんかよかったなあとしみじみ感じ入ってしまった。
妻子を迎えるまでの束の間の時間、リラックスしながら自分の時間を使えるというのはとてもメンタルヘルス的にグッドだ。あと40分ほどは自由時間であるので、ちょいと本を読むことにする。

7月13日(火)

「沖縄の若者」という漠然としたものを考えていた。なんとなく思い出したのが、『ドキュメント72時間』での「シーサイドドライブイン」。取材のなかで、5月15日について、ある若者は何の日か知らなかった。「いまの沖縄の若い人はみんな知らないはず」みたいなことを言っていた。だからなんだというわけではないけど。

岸政彦『はじめての沖縄』を読む。ここで語られている日本/沖縄の構図は、僕らのような若者/戦争体験者という構図にも重なるのだと思った。

いまの沖縄の若者のおしゃれは「チープかつディープ」な場所で酒を飲むこと。いろんな居酒屋がそういうつくりになっている。「吉田類」みたいなお店。
ある種のノスタルジーへの渇望みたいなものが沖縄の若者にもあるのではないか? 「沖縄っぽさ」を求めている側面もあるのでは? ある意味では「ナイチャー化」していて、それは基地問題にたいして「保守的」な意見が若い世代に増えていることとパラレルなのでは?

あらたなクリエーションの萌芽が出て、沖縄の復帰前について調べ始めている。キャラウェイの「沖縄の自治権は神話に過ぎない」という言葉、すごい言葉だ。これはかなり屈辱的だよな。
瀬長亀次郎は「基地反対の運動は単なる平和運動ではなく主権の問題だ」と言った。まさしく、である。

今回の作品は劇場の年度プログラムの一環としてあって、そのプログラムでは「忘却」が大きなテーマとしてあげられている。沖縄に住むわたしたちが「忘却」しているのは、「ここはわたしたちの島だ」ということなのではないか。
あるいは、沖縄人(うちなんちゅ)は自分たちの力で時にしたたかにつよく生き抜いてきたというその事実(過去)、であり、これからも自分たちでこの島の未来をつくっていくのだ、という意志ではないか。

昔この島で戦争というあってはいけないことが起きた。そしてその結果、戦闘のための、もっといえば殺戮のための基地というあってはいけないものがつくられた。
そして沖縄の人々は、その「あってはいけない」ことやものとずっと生きてきた。
そういうことを単純に語れるわけがない。右か左かとか、賛成か反対かとか、あるいはうちなんちゅかナイチャーかとか、それだけで語れるものではない。
でも、劇をつくる身としては、語らないといけない。どのような語り方をしようとも何かが漏れてしまうことになるが、それでもその何かを選び取らなければならない。
正直にいうと怖い。でも沖縄に生きる身として、演劇人として、この「沖縄」という大きな問題に向き合えるというのは、これはとても貴重な機会をもらえた。全力で取り組んでいきたい。という真面目な所信表明でした。

7月14日(水)

自分たちのことは自分たちで決める、という自治の感覚についてだけど、2020年2月に辺野古基地建設についての賛否を問う県民投票があって、その投票結果では反対が7割を超えた。
辺野古の基地移設というワンイシューについては反対である、という民意がはっきりと出たにも関わらず、政府はその方針を変えようとしない。未だに工事は進められている。
こりゃもう、諦める人も多いよな。どんだけ反対だと言っても、これが民意だと示しても、その声はただ沖縄の内側で鳴り響いているだけで、やがて少なくない人がいつまでも響き続けるその声をうるさく感じるようになるだろう、というかすでにそうなっている。
つまり、反対だけど、変わらないなら仕方ないじゃん、と。その「現実的」なスタンスを取る人がこれからどんどん増えていくのではないか。つまり、若い人ほど「諦め」を感じ続けているのではないか。
島ぐるみ闘争も復帰運動も経験していないし、近年盛り上がったSEALDsの活動も結局止まってしまったような気もする。まあ、もうちょっと考えてみよう。

7月15日(木)

今日は朝から偏頭痛重くて仕事を休んだ。もともと午後は妻が用事のため子守の予定で、ちょっと怪しかったが2度薬を飲んで頭痛も治り、予定通り子どもと二人留守番。絵本読んだり遊んだり、ミルクあげたりお風呂入れたりゆっくり時間を過ごす。
かわいいなあ、しかし。
息子の眠気はけっこうなもので、遊んでいてもすぐぐずり出して、抱っこしたらすぐウトウトしだす。それもかわいい。
すっかり子どもの奴隷である。寝ている間に仕事しようと思ったけど、やり始めた瞬間に泣き始めるから、なんかわかってるのかもしれん。

沖縄の復帰前について調べたいんだけど、曖昧で漠然としていてなにをどこからどうやってしらべていけばいいのかいまだ判然としない。先日まで岸政彦の『はじめての沖縄』を読んでいて、いまはおなじ岸政彦の『同化と他者化』と仲村清司の『消えゆく沖縄』を読んでいる。復帰前のことについて直接関係あるかはわからんけど。

7月16日(金)

なんか日記もやる気がないし、体もだるいし、気温体温が高い時は鬱になっちゃうよね、ほんとに。夏バテかもしれんけども。とにかくなまどろ様が体内で暴れまくっており、なまどろ様が暴れるということと反比例してわたしは動けなくなってしまう。
文字数が書けない、書くことが生成されない、というのはきっと、意識が近視眼的になってるってことなんだと思う。目の前のこと、やらなきゃいけないこと、そういったことにばかり意識がいっていて、広い視野で鳥の目線で、フニャフニャの脳みそで考えられていないのだ。
じゃあそれはどうすれば良いのか。きっと、義務感からの解放だ。
鬱っぽいときはだいたいにおいて義務感に苛まれている。その義務は本当に義務なのか? それを解体していって、義務の範囲を最小化させる。やるべきことはそれである。
じゃあどうするか、事務的に処理する。義務ではなく事務。義務ではなく事務。これが今後しばらくのわたしのスローガンだ。
とりあえずiPadでいろいろ事務処理できるようにはしてあるのだから、あまり焦らず、macbookはアトリエに置いておいて、カバン一つでどこでも事務ができるようにやってみよう。
なんか新自由主義的な発想でなんとなく嫌なんだけど、自分のメンタルを安定させる意味でとりあえず暫定的に良しとしよう。

ユタの本を買った。『ユタの境界を生きる人々』。
目次を見る限りでは先行研究などについてもまとめられているようなので、とても助かる。
なんでわたしは「ユタ」に惹かれているのだろうか。正直あまりわからないし、そもそもそんなに惹かれてもいないような気もする。ただなんとなくそうする必要があるような気がしてリサーチしているって感じ。
いまストップしているドラマ、県内プロデューサーとの作品、県外劇場からの作品、このいずれにも「ユタ」が絡んできたら面白いのではないか。ユタ三部作。ユタサーガ。
それぞれ、ユタの存在から導きだしたテーマをひっそりと埋め込んで作品化する。という遊び。神々の遊び。
てなるとわたしが神みたいになってしまう。作品にとってはそれを生み出す存在だから神的な立場に入ることになるな、確かに。
でもな〜、「負ける演劇」を標榜するわたしにとって(いつ標榜した?)、絶対的な権力者みたいなポジションに自分を置きたくないのだよね。とまあ、無駄な単語たちで文字数を稼げたので、メンタルも少しだけ回復した。とりあえず、ユタ本に取り掛かるとする。

7月17日(土)

昨日の夜中からアトリエに行きひとりなにかしら作業をしようとしたのだけど結局なにもできず。
仕方がないから『逃げ恥』を見た。面白い、ヤキモキする、キュンとする、切ない、ひー。
ちゃんと感情が動くというのは大事なことだ。鬱のときこそエンタメだ。
わたしはまだ「時間」というものをうまくあつかえていない、持て余している。暇な時間をたっぷり作ってたとえば子どもと一緒にいる時間などを増やす。そういうことをしたい。あまりワーカホリックな自分を称揚したくない。

今日はこれから自宅で読書。
いま7時51分。3時間ほど読めたらいいけど、子どもが起きたら中断することになる。それは仕方ないことだし、それはそれで全然構わない。
ただ読書したものについてはちゃんとまとめたいな。そのうえで次回のミーティングには臨みたい。
あと図書館と博物館にも行きたい。調べ物があるのです。読書終わったら図書館に行こう。そんで、復帰前の沖縄の人の暮らしとかについて書かれている本とかあれば、それを借りてこよう。ワーカホリックやねえ、しかし。

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