第28回[12月17日〜12月26日]

鬱でウンウン唸っていた時期の日記。鬱のときは何もすることができなくて、でもなにかしなくちゃと思って、この日記を書いていた。だから逆に調子がいい時よりも文字数が多くなる。調子がいいときは日記とかシカトしてるから。

2021年12月17日

久しぶりに日記。久しぶりに死にたくなった。というか、死のうと思った。こんなときにどうすればいいのかはすこしだけわきまえているので、ジャンキーなものを食おうとした。肉を食べようと思った。ステーキ。いつもの赤道のステーキ。でも胸焼けがする。ちょっと重いかな。このテキストにあまり読点(、)が入らないのは、この間からMacBookの具合が悪くて時々(、)の入力ができないからあまりそれに依存しないような文章の書き方を会得したいなんて思いが別にあるわけではないのだけど、だって現にこうして使ってるし、でも調子悪いのは本当だからどっかの時点から一個も(、)を使わないテキストに変貌している可能性もある。だからなんだという話だが。

ステーキは諦めてすき家に行ったのだけど、いつもの高菜明太マヨやチーズ牛丼じゃなくてカルビ丼を食べるためだったのだけど、見事にメニューになかった。困る。だってワタシ死にたいのだから。カルビ丼食べないと死んじゃうんだから。結局いつもの高菜明太マヨ牛丼で、でもいつもはミニサイズだけど今日は「並」にした。ちょっと贅沢。そしたら食べ終わる頃には死にたみはどっかにいなくなっていて、なんだ腹減ってただけかよってことにいまはなっている。まあ腹減ってただけではないんだけど、でも空腹よりは満腹の方が死にたみは薄れることは経験上知っているのでそうしたまでなのだがその判断ナイスだと思う。

正直今回の鬱がここまでキツイとは想定していなかった。いつもキツイけどキツイの中では軽いもんだと思ってたもんだから、不意に持ってかれるところだったですよまったく。この日記をしばらく止めてたのは、いま執筆に取り組んでいるある作品があって日記を書いてたらその作品についての思うところをドバドバと書いてしまうことにどうせなるんだけど、そうなったら情報漏洩的なことになってしまうので書いてなかった。書こうとしなくても内容について書いちゃうんですワタシ。意識しててもそうなっちゃうというか、考えないぞって思ってる時点ですでに考えてるみたいな、そういうこと? なんで誰にクエスチョン? 急に世界ふしぎ発見のことを思い出したんだけど、そしてほぼ同時にちびまる子ちゃんのことも思い出したんだけど、正確にはちびまる子ちゃんの「後半へ続く」っていうワードを思い出したんだけど、別にそこには何の関連もなくて「ここでクエスチョンです」っていうフレーズと「後半へ続く」というフレーズが、同じ「フレーズ」であるということだけの繋がり。言ってしまえばなんの繋がりもないけど、いや、あるな、「おなじみ」ってやつだな。たぶん「後半へ続く」の方はhomecomingsの『continue』を最近よく聞いたり口ずさんだりしてたから思い出しただけっていう説もある。

さて、前の段落までですでに1153文字を書いた。そういえばこの日記はリハビリのためのもので、調子のバロメーターは文字数だった。そうか、私には「文字数」が足りなかったのだ。最近、劇作家のコウジュンさんが1200文字を毎日書くというのにチャレンジしているらしいのだけど、あの投稿を見た時なんか俺と同じことをしてるなって思ってちょっと照れ臭くなってしまった。コウジュンさんも「文字数」を欲しているのだろうか。

ここまで取り留めもなく書いてきたけど、なんかスッキリした。ときどきは日記も書こう、できたら毎日書こう。変換ミスで「毎日加工」って出てきたんだけど、なんかいいなって思った。オッ!って。「加工」するわけですね、わたしの「毎日」に。このクソみたいな日常を加工してキラキラに見せてやる。インフルエンサーに俺はなる。無理無理。インフルエンサーとか絶対無理。キツそう。まあどうせなれんけど。まあでも加工して、工夫して、そうだ『K.U.F.U.』を聴こう。

12月21日

年明けに仕事で東京・横浜に行く。そのための防寒用ダウンを昨日買ったのだけど、まあ今の体型だとちょっと、というかまったくおしゃれに見えないな。これはいよいよ痩せなきゃならんぜよ。鬱だからという理由で制限撤廃してバカ喰いしてたけど、逆に食を律することで自分に自信を得ることができてその結果鬱にも効く、なんてことにならないだろうか。わからんけど。

スケジューリングをちゃんとして、それに沿った行動を心がける。それができてる時は調子がいい。それはもしかしたら調子がいいからできるってことなのかもしれないけど、というか多分にそうなんだけど、それを反転させてしまえという作戦。でもそうすると認知リソースと体力を浪費してしまうのじゃないかと心配にもなるけど、でもいいや、ちゃんとしよう。もともとそういう人間だ。真面目さが武器だったのだ。真面目にできないことを嘆くのはデフォルトなわけで、少しでも真面目にできたことを自分で評価できるように、そのために可視化の作業をしよう。だからちゃんとスケジュールを立てて、ToDoリストを潰していく。それらをちゃんと紙の上で行う。できることはやってみよう。

いろいろとデザインやレイアウトをお願いされている放課後等デイからニュースレターの原稿と写真が届く。これをワードに、新聞調にレイアウトして先方に戻す、というのが今日のうちでやりたい作業。本当は午前中で終わらせたかったけど、ついさっき届いたばかり(いま10時40分過ぎ)なので、時間的にどうだろうか。まずはやってみようか。

それから午後に保育園の事務作業を、溜まりまくっているものをすこしずつ消化していこう。まじで全然仕事できてなかったから、ここ最近、だからやんなきゃ。真面目な自分がほらこうやって自分を追い込んでいくのだけど、でもこの性格はこの生活、この仕事をしていくうちには、すくなくとも今のやり方考え方でやっていくうちには変わりようがないのだろうし、だからもうこのままの状態でできることをやるっていうように切り替えよう。毎回新しく生まれ変わろうとしちゃうのだけど、地味なアップデートをコツコツと積み重ねるしかないのよね結局。バグの修正を。

そうか、鬱はバグなのだ。バグは毎回どっかで見つかるし、それを修正していかなきゃいけない。OSがアップデートされるたびにいろいろと不具合も見つかるし、私というソフトを使っていくうえで必ず見つかるバグ、不具合が「鬱」なのだ。

とちょっと前向き(?)になれてるのは、昨日服を買ったからだと思う。俗っぽいけど、好きな服を着るとかオシャレをするとか、そういうことってとてもナイスだなという特に含蓄のないことを実感した。新しい服を着るだけで、あるいは好きな服を着るだけで気分が上がる、やる気がちょっと出る、そういうことってあるよね。はい、あります。みんな言ってます。ということはそれだけ普遍的だということですね。効果が高いのでしょう、きっと。

よし、脚本のいま書いている稿も、今日でscrivenerからwordに流し込めるようにがんばってみよう。そうしたらなんか前に進んだ感じになる。さっきまで苦しいなって思ってたけど、ちょっと頑張る気になった。

12月22日

昨日は久しぶりによく寝た。4日分くらい寝たんじゃないかというくらい寝た。12時くらいから9時くらいまで寝た。9時間。健康的。いつもなら寝すぎだと自己嫌悪に陥るところだけど、たまには褒めよう。よく寝たよと。健康的だぞと。なによりも健康を大切にしよう。健康で文化的な生活を送ることは憲法にも定められているわけで、その権利をわざわざ自分から放棄する必要はない。健康から生活を守る、という本もあったが、あの本は面白かったが、健康と生活が両立できる限りはそうしたほうがいい。健康的な生活。

あと文化的にもやはり足りてない。純粋に心から楽しんで本や映画やアニメやドラマや漫画を享受できていない。なんらかの「資料」として見て/読んでしまう。それはそれでいいのだけど、それにいまは執筆に追われているから仕方ないのだけど、そういう文化の受信の仕方を心がけたいものである。

というわけで今朝も喫茶店・原点に来てこの日記を書いている。これも文化的な生活のひとつの顕現である。脚本をやろうと思ったけど、やめた。いきなり走り出してもすぐに苦しくなるので、アイドリングとしてこのテキストからはじめる。それはとてもいい習慣になるかもしれない。というか前はそうしていたのだ。それを再開させればいい。

この前から日記を再開させているのだけど、一二〇〇文字を越えるまでは書きたい、というのをなんとなく思ってそうしている。それは大先輩のコウジュンさんがそうしている、というのもあるのだけど、それ以前に字面として一〇〇〇よりも一二〇〇の方が「大人の余裕」を感じられる気がした。一〇〇〇文字だと、なんとか漕ぎ着けた感が出てしまうような気がしたのだが、でもこう書いている最中にまた思うのだが誰に対してそう考えているのだろうかわたしは。この「こぎつけた感」は、私にしか感じないものだ。一二〇〇でも同じじゃないのか? でも違うのだ。これまたいま書きながら感じたことだけど、負荷を上げてるってことだ。前まではなんとなく一〇〇〇文字を目安に書いてたけど、そのレベルにはもう達しているって考えていいんじゃないだろうか。一〇〇〇文字だと原稿用紙二枚半分。それを三枚台に載せちゃえっていうことなのだきっと。それができるパワーがついてきたのだと解釈していい。

というか、これいまstoneで書いているのだけど、単純にこのエディタに書くのが気持ちいいという話かもしれない。workflowyに書いてた時よりも、なんか書きたくなる。あれはもともと「箇条書き」に最適化されたものだから、日記についてはこっち(stone)のほうがやりやすいのかもしれない。

ここまでで一〇〇〇文字は超えている。そこからあと一歩だけ先に行くってことが自分自身にとって必要なことだったのだ。だからこそ一二〇〇だったわけだ。このまま続けば、一六〇〇文字、つまり原稿用紙四枚分のレベルに入っていけるのだろう。それはいつになるだろうか。来月? 早めにそこまでいけるようになりたい。でもそれにはそもそも、物理的に時間を取らないといけない。執筆時間を。それがなかなか難しいのだけど。原点では日記を書く、っていうふうに決めたらいいのかもしれない。

さて、もう目安は超えたからそろそろ今日の分の日記も締めましょう。がんばったがんばった。ナイス俺。

12月26日

一昨日は鬱の状態がだいぶ酷くて一日中寝込んでいた。昨日は昼前に無理矢理起きて、実家に行くなりなんなりした。この状態がこのまんま続くのなら、本気で仕事のこととか考えないといけないんじゃないだろうか。なんてことを思った。

今日は12月26日。クリスマスイブとクリスマス当日はほとんど寝込んでいたから、街の雑踏的なものを全然感じていない。なんか花火は上がったりしてたけど。どうなんだろう、みんな、クリスマスしてたんだろうか。まあ、あまり興味はないけど。

朝からマックにきてこの日記を書き始めている。これが終われば脚本に向き合わなければいけない。やだなぁ。ムズイ。苦しい。でもこれは脚本自体の苦しさっていうより、年末で仕事を残しまくってるのに蓋をしていることが大きい原因でもあるような気がする。仕事から先に終わらせるべきなのはわかってるけど、体が動かないから困る。先週1週間で1ミリも進まなかった。困る。そのくせこうして日記を書いているじゃないかという文句が聞こえてきそうである。自分の内側から。その内なる声が私を殺そうとするのである。死にたくさせるのはこの「内なる声」なんですよね。「規範性」とも言えるかもしれない。規範性を強固にインプットされてしまっている私は、なかなか鬱から解放されない。たぶんあと何年も、何十年もかかるかもしれない。そう考えると絶望的な気持ちになる。

NHKの『こころの時代』を昨日たまたま見ていたら、旧約聖書の「コヘレトの言葉」を取り上げていて、いろいろ沁みた。クロノス(時間。水平的)とカイロス(刻。垂直的)の違いとか、「わかった」と思い込むから絶望があること。でも一番沁みたのは、コヘレトの部分じゃなくて「ヨブ記」で、ヨブ記を『夜と霧』のフランクルの言葉とつなげて解説してた部分。ヨブの問いかけに答えない神はヨブに、逆に「答えよ」と問い返す。これがフランクルの我々は人生へ問うのではなく人生から問われているのだという言葉と同じものなのだと解説がされた。うんうん、そうだよな。人生に何を期待するのか、ではなく、人生から私は何を期待されているのか。「私」ではなく、「人生」という視点からいまの生活、いまの生き方を見てみる、問いかけてみる。必要なのはそういうことだ。忘れてました、フランクル。鬱のときはそういうこと全部忘れちゃって、辛かったことばかり思い出してしまうから、どうにか引き戻してくれるようなそういう言葉を常時携帯しておきたい。でもそれやりすぎるとただの自己啓発野郎になっちゃいそうな気もするけど、でも自己啓発で生き延びれるんだったらいいんじゃねとかも思ったりする。

さて、いよいよこの日記も終わりが近づいてきた。つまり一二〇〇文字が近づいてきた。これ終わって脚本にちゃんと取り組めるのか? できる気がしない。まあいいや、できなくても。とりあえず出力した原稿を目の前に取り出してあるから、それだけでとりあえずオッケーってことにしよう。

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