『刺青/TATTOOER』日本公演(於:アトリエ春風舎)が終了しました。ご来場いただいた皆さま、誠にありがとうございました。
来月にはロンドンで、同一キャストでの英語版が上演されます。どのような反応をもらえるかとても楽しみです。
今作の戯曲を執筆するうえで参考にした文献等を、以下で紹介します。どれも興味深くて、でももちろんすべてを理解できたわけはなく、そもそも最後まで読了できていないものもありますが、でもどの本もとても有意義な読書体験でした。
1)谷崎潤一郎「刺青」(『刺青・秘密』新潮文庫)
まああらためて説明するまでもないですが、こちら今回の作品の元となった小説です。文庫でわずか12頁のごく短い作品ですが、谷崎がはじめて世に出した小説で、すでに耽美的なスタイルが構築されています。
2)谷崎潤一郎『春琴抄』(新潮文庫)
今作においては、第1幕の終盤で清吉が行う、『春琴抄』の佐助をモチーフにしたようなある行動によって、物語が大きく変化するような仕掛けになっています。清吉にとっての「美」の概念が、静的な「構造」から動的な「時間」に変わる、ということを意識していました。清吉の「美」が和代の「傷」に「敗北」する。それによって清吉は新たな「美」あるいは「官能」に目覚める。そんなふうなことです。
3)宮地尚子『傷を愛せるか(増補新版)』(ちくま文庫)
第1幕において、清吉のキャンバスとなるべく捉えられた和代の背中に刻まれていた「傷」。その傷が手当てされ、誰かとともに持ち堪えることができるのなら。そんなことを考えていました。宮地さんのこのエッセイ集の、特に最後の章、表題でもある「傷を愛せるか」というエッセイにはすごく心を打たれました。すごく読みやすいうえに、言葉がすーっと沁み入ってきます。ぜひ読んでほしい。
4)キャロル・ギリガン『もうひとつの声で——心理学の理論とケアの倫理』(風行社)
発達心理学の領域で「正義の倫理」としてピアジェやエリクソンなどを中心に展開されてきた発達理論に対してのオルタナティヴなものとして「ケアの倫理」を立ち上げた本。「女性をケア役割に縛るもの」として誤読され批判された経緯もあるようですが、読んでいくと、「ケア」を捨象せずに解像度高く描写して可視化しようとしているのがわかる。正義/ケアという対立軸として見るのではなく、「もうひとつ」のものとして描出すること。
5)小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社)
上のギリガンの理論をはじめさまざまな論点から、文学作品において「ケア」がどのように描かれているのか、とてもわかりやすく教えてくれます。文学でも演劇でも関係性を描くときには不可避的に「役割」が発生するので、そこを緻密に読んでいこうとする視点はとてもおもしろいです。
6)谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」(『鍵・瘋癲老人日記』新潮文庫)
第2幕では、1幕で目をつぶした清吉(言っちゃった)の、その後の姿が描かれます。すっかり変容した姿として描いたほうがいいなと思い、「瘋癲老人日記」の関係性を参考にしました。足への醜い執着を見せる老人でありながら著名な彫り師でもあるという人物設定は、いよいよ谷崎自身との区別が曖昧になってきていると思いながら書いていました。
7)小山騰『日本の刺青と英国王室——明治期から第一次世界大戦まで』(藤原書店)
2幕では、清吉に刺青を施してほしいと英国から来日した人物が登場します。英国でのタトゥーの需要のされ方などは日本とは異なる部分もあるかとは思いますが、明治期には英国王室と、日本では当時「野蛮」とされて禁じられていた刺青とが結びついた歴史的事実が記されています。いろいろと尾鰭が付いたまま海外に広がっていった彫り師の人物像とかも。
8)田村美由紀『口述筆記する文学——書くことの代行とジェンダー』(名古屋大学出版会)
晩年の谷崎は、病気のためにペンを持つことが難しく、口述筆記によって作品を執筆していたんだそうです(全然知らなかった)。作家と作品とのあいだに入り込む「筆記者」という存在。透明化されて存在すらも知らされない者について、あるいはその筆記という行為について、すごく緻密な調査や考察がされていて、この本を読みながら面白すぎて興奮して何度も立ち上がったりしてしまいました。マジでマジでおすすめ!!
9)伊吹和子『われよりほかに——谷崎潤一郎 最後の十二年』(講談社)
実際に谷崎の代行筆記を担当していた伊吹和子さんによる自伝。やはり谷崎は期待に違わずスケベジジイだったことがわかるのだが、彼女が「書く機械」に徹したことで自分自身を性的視線から防御すると同時に、それによって谷崎がスケベジジイモードに耽溺しないように、ちゃんと仕事してもらうように、つまり作家として成り立たせる戦略でもあったというのがわかってきておもしろい。
10)ダナ・ハラウェイ「サイボーグ宣言:二〇世紀後半の科学、技術、社会主義フェミニズム」(『猿と女とサイボーグ——自然の再発明』青土社)
正直めちゃめちゃ難しくてちゃんと理解できているのかは甚だ怪しいのですが……。2幕を書きながら、和代が「刺青マシーン」として清吉と接続することで、彫るという行為自体が主体となってサイボーグ身体があらわれるのではないか、そこに支配/被支配の二項対立が解体される可能性があるのではないか、というようなことを考えていました。
11)伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)
医学書院のシリーズ「ケアをひらく」の編集者・白石さんも言及してくださった伊藤亜紗さんの本はどれも大好きで、この本のなかで紹介されている「ソーシャルビュー」で他人の視界が入ってくることとか、足がサーチライトになることとか。特に足に執着する清吉にとっては、和代の視界のみならず足の触覚まで取り込んでしまうということもできるなと思い、私は愉快な気分になっていました。
12)伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチエ)
もう一冊、伊藤さんの本。「道徳」と「倫理」のちがい、「さわる」と「ふれる」のちがい、そして触覚は時間的な感覚であるという指摘は、今作において非常に重要なものだと自分では思っています。個別的な傷に、そっと、ゆっくり、時間をかけて、ふれる。漸次的にわかっていく、常時組み替わっていく。そのようなありかた=「倫理」を探求したかったんだなと、上演を終えた今は思っています。