第53回[12月4日]

疲れています。ずーっと何かしら書いたり構想したり調べたりしています。疲れています。疲れているのに久しぶりに日記を書いた私は偉い。

2025年12月4日

沖縄について描かれた演劇作品をこのところ続けて観る機会があった。たとえば人類館は沖縄でも愛知でも観た。すごくよかったのと、沖縄タイムスにレビュー書いたのでそっちも読んで欲しいのだが、字数の関係上ふれられなかったところもたくさんあるので、どこかのタイミングでまとめて書きたいなと思っている。

今日はそのこと(人類館)ではなく、また別の作品。
私の抱いている疲労感にも少々この作品が関わっていると思われるので、そのことを書いたらその分の疲れもここに残して置いていけるのではないかと目論んでいる。

タイトルは言わないが、沖縄を描いた三部作の3つめ。過去の2つは、1作目は戯曲だけ読んで、2作目は劇場で観た。
1作目の戯曲を読んだ感じは、誠実で丁寧に書かれていることはとても感じたが、これが2022年(初演時)につくられたことの意義みたいなのは、復帰50年という周年であること以外に見出せず、つまりとても既視感がある感じというか、うん、知ってる、って確認するために読んでたような気がする。でもこれが本土では評価された。そっか、これが、そうなのか、、、となんとも不思議というか、もやもやした感覚をそのときに抱いた。

2作目は劇場で観たけど、正直にいうけど、ラストシーンを見た時に私はふつふつと怒りが沸いた。これ、いいのか? ダメでしょ?
県外出身で過去に沖縄で過ごしたことのある男性(そのときの話が1作目)が、とある事情によってなかなか沖縄にくることができなくなっていた。
久しぶりに来沖して過ごしているタイミングで米兵による少女暴行事件が起き、その怒りが県民大会として着火する。その様子を見た県外男性が、諦めてはいけない、と希望的に語って終幕となる。
え? ダメじゃん? 普通に。
あんたらの高揚あるいは慰撫のために沖縄を利用してないか?
沖縄の怒りをオカズに自慰行為してるってことなんじゃないの?
これをド直球に見せつけられてものすごく気分が悪くなったんだが、観客の人はわりと好意的に受け入れいてるような感じがあって、どうせこれがまた県外でも評価されるんだろうなっていう予感ともあわさって、なんかもういいや(なにがかはわからん)ってなった。

それでもちゃんと3作目を観に行った私は偉いと思う。
2作目のあの最悪なラストがなにかしら回収されるのではないか、いやどうかそうしてくれ、という祈りというか懇願みたいなのがあって、それでチケットを取った。
でも、今回は怒りとかじゃなくて呆れたし、ラストだけじゃなくて全体としてダメだと思った。

劇に登場する若い自衛官のある意味でとても無垢な思想(国防や安全保障と、家族や大切な人を守りたいという想いがストレートに接続している)が語られ、それに対峙する言葉としてまたしても県外から来た男性(1作目、2作目と同じ人)によって長々と自衛隊の必要性と沖縄県民の想いのどちらにも慮ったとても配慮のある穏当な御言葉が語られ、その周囲に沖縄の女性たちが座らされて黙って聞いているという構図。いや明確にあかんでしょ。

辺野古の米軍基地や自衛隊基地の新設に反対している高齢女性の言葉も語られるが、車座になって議論している(自衛官と県外男性の議論)際にはほとんど発話を許されず、なんかなだめられているというか、たしなめられているというか、丸め込まれているというか、そういう構図になっていて、普通にキモかった。

あーこういうのめっちゃ知ってる〜、めっちゃあるあるじゃん〜、っていうそういうことならアリ。
そういう相対化をしているシーンだったら拍手するけど、そういうわけじゃないし、むしろこの劇のクライマックスみたいな感じだったし。

あ、あと、そんなこんなを最終的には、沖縄の伝統的な歌と踊りで華やかにコーティングして提示してきて、そのグロテスクさはより一層輝きを増していて、ああ沖縄という場所はとても美しく魅力的な楽園ですねって思いました。
(その曲自体に意味があるのだろうが、ここに関しては明確に私の勉強不足で全然わかんないので、そのぶんコーティング効果を割合多く受け取ってしまっているとは思う。)

そんで繰り返しになるけど、これたぶん評価されるんでしょ。これ観て、沖縄に想いを馳せるんでしょ。
それなら俺が劇作ってもどうせ意味ないじゃんみたいな、こっちがどんだけいろいろ考えて書いても、社会的には求められてるのはこれで沖縄表象はどうせここに引き戻されるんでしょ、みたいなことを思ってやる気をなくした。

まあ、仕事なんで書きますけどね。粛々と。あまり求められてはないでしょうが。

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