第16回[4月30日〜5月11日]

子どもが生まれました。父親になりました。これからいったいどうなるのでしょうか。ようわかりませんね。とりあえず、かわいいな。かわいいかわいい言い続けるだろうことだけはわかっています。赤ちゃんの写真載せろよって感じですが、なんとなく載せたくなかったので載せません。代わりに台本の写真載せます。感謝しろよ。

4月30日(金)

自分の生活をつくる。そこからはじめていかなければならない。生まれてくる子どもにとってなにをしたらいいか。なにをしてあげられるか。「自分の野球」をしよう。そしてその「自分の野球」を子どもに見せよう。
死にたい姿を生まれてくる子どもに見せたくはない。できれば生き生きとしている姿を見せたい。このままでは死にたいままの姿で子どもを育てていくことになってしまう。しばらくは忙殺されるだろうけど、落ち着いた時、わたし自身も生き生きしながら子どもと一緒に体験できることをいまから準備したい。前々から畑はやりたいと思っていたから、まずはそれ。

5月1日(土)

5月になりました。わりとスッキリした気分になっている。自分の人生を生きよう。自分の野球をしよう。1割2分5厘の勝率でも楽しい人生は送れる。その「アマチュア」な人生をこれから送っていく。その勝率でも楽しんでいる姿を子どもに見せたい。そう決めた。大好きな『三美スーパースターズ 最後のファンクラブ』。この作品に書かれていることを胸に生きていきたい。

自分の時間を、人生を楽しむために使う。これは『ふしぎの国のハイサイ食堂』に書いたセリフだ。時間の都合上&テーマ上カットになった部分(だったと思う)だけど、これなんだな。結局自分の作品にいつも教えてもらうのだ。

5月3日(月)

ゴールデンウィーク。コロナもあって社会全体的に停滞している感じ。

カトリーヌ・マラブーっていう哲学者がいる。その人が「老い」について言っていることがあって、わたしなりにざっくりとまとめると(誤読も込みで)、「老化って、急にくるよね」ってこと。
あと「急にくるからビックリするし、なんとかしようと思ってもできないから混乱するよね」ってこと。こういうようなことをマラブーは「破壊的可塑性」と呼んで説明している。

可塑性とは、「固体に外力を加えて変形させ、力を取り去ってももとに戻らない性質」(デジタル大辞泉)のことをいう。言い換えれば、形を自由自在に変形できる性質とも説明できる。その「可塑性」が「破壊的」に顕れるのが「破壊的可塑性」である。

ふつう老化は徐々に進行していくというイメージがある。フィジカルな側面で見たら実際にそうだろう。
でもある面では、たとえばメンタル的に、つまり実体験としては「急に」やってくるのが老化なのではないか。いきなり、これまでできていた(と自覚していた)ものができなくなる。うまくいかなくなる。おなじ対象や行動であるのにこれまでとはっきりと異なった感覚、現象、体験が生じている。

「病い」についてはわかりやすく「破壊的可塑性」の部分があると思うが、でも例えばわたしが苦しんでいる「双極性障害(躁鬱病)」などは、急に罹患するのではなく、徐々になっていくものだと思う。
その「徐々に」の時期は、なんとかかんんとかやり過ごすことができているのである。このときはまだわたしにとっては破壊的可塑性は到来していない。
でもあるとき突然訪れる変調の自覚によって、人生が一変してしまう。これまでできていたことができなくなることの寂しさ。将来がこれまでの延長としては進んでいかないということを突きつけられるという絶望。

ここまでは原点で書いている。これからアトリエに戻り、『急に具合が悪くなる』と『偶発事の存在論』をパラパラとめくってみるつもり。

マラブーの本を読んでいて、「太ること」についても「破壊的可塑性」として考察できるのではないか、という直感が生じる。

このところ、ついつい食べ過ぎてしまう。
たとえば忙しい時期やストレスを感じ続けているときなど、そういう過食は起こりやすい。その現象は言い換えれば、食事量の平均値が増加しており、かつその抑制が困難である、ということである。
平均値が変化するとき生活における食の意味もまた変化しているのではないか。

体重は徐々に増えていて「構築的可塑性」といえるのだが、「ヤバい!太った!」と自覚した瞬間はまさしく「破壊的可塑性」である。
つまり気づいたときには食事量の平均値は完全に上昇しており、生活そのものが変化しているということである。だから意識だけでは減量は難しいのだ。つまり生活の変化を伴わなければダイエットは成功しないということだ。
そしてわたしたちがダイエットを決意するときは、しばしば生活を「劇的」に変化させようとする。たとえば、糖質をすべてカットしたり、極端な少食をしたり。糖質オフや食事制限を「平均値」として設定した場合、目標体重に到達してその制限を解除することがすなわち「平均値の上昇」を意味する。このことを「リバウンド」と呼ぶ。

破壊的可塑性によって到来した体重増加という現象に対して、おなじような「劇的」な対策を取るのは分が悪い。徐々に、「構築的」に食事量の平均値を下げていくしかないのである。
食事量の平均値の上昇は、1回の食事量の増加、食事回数の増加、という大きく二つにわけられるだろう。PFCバランスやカロリーなどについてはここでは語れない。それはべつの話。
食事量の現象が難しいのは、食事には「快楽」が伴うからだ。美味いものはたくさん食べたい。つまり食事量の現象というのは快楽の現象である。その快楽を文字通り肉体で覚えてしまっている我々は、それに争い続けなければならない。

1回の食事量を抑制するためには何ができるだろうか。端的に行ってしまえば、「ゆっくり味わう」ということに尽きるのではないか。量を抑えながらも、快楽を享受する時間をできるかぎり引き伸ばす。

もう一つの食事回数の増加については、これはついつい食べちゃう「間食」の問題と、誰かと一緒にいるときに発生する「関係」の問題に分別できるのではないかと思っている。これについては『食べることと出すこと』を読んでから考えたい。

極端なダイエットをしている人にとっては、食べることはすべて「リスク」である。それが常態化した場合が拒食症である。
そこまで極端でなくても、ダイエッターにとっては、生きていくのに必要な食という行為がリスクにまみれたものになるのである。そのなかでもとりわけ大きなリスクが「他者」である。

人と人が会うとき、多くの場合飲食が伴う。出されたものを食べない、というのは、相手への拒否を示すことになる。
誰かと一緒にご飯を食べている、相手が残してしまう、その残りを食べてしまう。もったいないから、というのもある。残すことで相手が感じるであろう罪悪感のようなものを和らげるための行為、というふうにもいえそうだ。

会食を減らす、というのがまずある。コロナで大変な時期ではあるが、ダイエッターには少しだけ都合がいいのかもしれない。
でも会食は、ダイエッターにとっては重要なストレス解消策でもあるので、そういう場合にはダイエッター同士で会食をすると、お互いに気を使うことも減らすことができる。
同志との会話でモチベーションを向上させることにもつながるため、ダイエットをはじめるにあたってダイエットサークルのようなものを形成して成員を集っておくといいかもしれない。

家族と食べるという場合には、時間をズラす、あるいは食べる場所を変える、というのも必要な策かもしれない。食事をコミュニケーションの機会として重要視する向きもあるため、食べ終わった後でお茶などを飲みながら食卓を囲む、というような団欒の仕方を工夫するなどが必要。いずれにしろ家族の協力は不可欠である。

5月8日(土)

昨日から、なんとなくホラー作品のプロットをつくりはじめてる。別になんの企画もないけど、強いていえば仕事からの逃避なんだけど、とりあえずはじめてみたらちょっとおもしろい。
ホラーってつくったことないし、まあたまに劇を見てくれた人が「ホラーでしたね」って言ってくれることはあるんだけど、でもそういう描写がちょくちょくあったっていうだけでジャンルそのものがホラーっていうことはなかった。
まあ、途中でコメディとかスリラーに変わってる可能性もあるけど、とりあえず書いてみよ。とりあえずプロットだけ。

プロットを書くことについてずっと苦手意識があったんだけど、FMシアターを経て、プロット作りも意外と大丈夫かも、と思えるようになった。苦手克服できそうな予感。それもあって今回プロット試しに作ってみようってなってるんだけど。
これまでもらってる仕事はどちらかというと「おきなわ文学賞受賞!」という肩書きが後押ししてくれた感があるのだけど、今後はよりシビアに実力が問われるというか、「こいつなら面白いの作れる」っていうふうに思われないといけなくて、そしたらやっぱプロット建てれるようにならないとなぁ。

そういえば詳しくはいえないのだけどあるプロジェクトが始まっていて、そこで「没落貴族」を扱いたい、というのをこの間のミーティングで話した。
プロデューサーの意向で早い段階ではあまり固めたくないとのことであまり具体的なことはまだ考えていないのだけど、これもプロット起こしてみようかな。そのほうがアイデア広がるし他の案が出てくるかもな。あれ、こっちが先か?

5月11日(火)

昨日子どもが生まれた。なんか言語化しがたい感覚。なんらかの感情を実感したのだけど、それがどんな感情なのかまだわからない。
嬉しさ、愛おしさ、達成感、決意、感動、なんかどれもしっくりこない。なんだろう。「なにかを実感した」としか言い切れないのである。

いよいよウチに王様がやってくる。これからは彼に服従する日々である。
王様が気持ちよーく過ごせるように、それでいて家臣であるわたしも気持ちよーく過ごせるように政治的な企みが必要である。つまり、わたしの好きなことや快適なことを王様にも好きになってもらうのである。なにかつくったりすることを好きになるように企てたい。

原点に行き、子どもが生まれたことを報告した。すごい喜んでくれた。あんなふうに笑うマスターは初めて見た。それがとても嬉しかった。

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