第20回[6月7日〜6月11日]

記念すべき第20回。でもなんの祝祭性も感じられない。だって完全に自己満なんだもの。でもいいわ。これがわたしの生きる道よ。そうそう、6月9日の日記は個人的に好きなので是非読んでほしいわ。内容はクソみたいな話よ。便秘の話。みんな興味あるでしょ?

6月7日(月)

なんのネタもないのにテキストなんて書けるだろうか。
ただただ言葉の運動としてのテキスト。書く前には、書けそうな気がする。すでに書いた言葉から連想して言葉を紡いでいけばいいから。実際今も、というかこれまでもそうやって「連想」によって書いてきたし。
でも問題は、書くことはできても、それが面白いテキストなのか、特に書き手であるわたし自身にとって面白い書き物なのか、ということ。
書き手としては、目の前の文章に気付かされたり驚かされたり、そういう体験をしたい。新たな視点・論点・価値観・発想、そういったものがいつの間にか自分の書いたテキストに出現している、というのが一番の理想なのだ。
でも、「連想」の幅が狭いと、いつもと同じようなことばかり書いてしまう。つまんないのです。
こうして毎日のように日記を書いてはいるが、そんな毎日新たな視点なんてものは書き表せきれないし、ということは日記のほとんどはつまらないこと、今まで考えてきたこと、既存のこと、そういったことの焼き増しだと言えるのかもしれない。

中学校の同級生が『ふしぎの国のハイサイ食堂』を聞いてくれて、とてもいい感想をくれた。嬉しいな。
こうやって応援してくれる人がいるだけで、創作を今後も続けていこう、面白いものを書こう、というモチベーションになる。
その友人は小学校の先生をしていて、いまは育休中なのだが、戻ったら子どもたちにこのドラマが描いていることを伝えたい、と言ってくれて半泣きなった。
自分の書いた言葉が誰かの心に響いて、そしてそれがまた別の人の元に届いて、ってこうやってリレーみたいに繋がったいくことの起点にわたしの作品があるっていうのが嬉しいし、でも実はわたしの作品が起点なんてことはなくてわたしが見たり読んだり体験したりしてきたことのなかにその価値観はすでにあったわけで、わたしもバトンを繋いだ者の一人である。
わたしオリジナルの考え方なんかじゃなくて、『ハイサイ食堂』でいえば、『居るのはつらいよ』や『一汁一菜でよいという提案』や『暇と退屈の倫理学』や、熊谷晋一郎さんの「自立とは依存先を増やすこと」という考え方や『カレンの台所』や、ほんとにいろんなものから吸収して吐き出したものがいっぱいある。
吸って吐くという当たり前のことをしているのだけどついつい吐くことばかりに意地になってオリジナル幻想に取り憑かれて面白いものを「生み出す」ことを頑張ってやろうとするのだけど、面白いことや素敵なことはすでに世界の中にいっぱいあって、それを見ようとする視点というかそういうのが「自分らしさ」なんて呼ばれるものなのだろう。
オリジナリティは吐き方じゃなく吸い方にある。

少し偏頭痛気味。頭痛薬飲んでちょっと治ったけど、時間経ったからまた痛みがきてる。
今週末からは宜野湾の自宅に戻る予定で、それを機にまた生活リズムの改訂が必要だ。勤務時間を午前中に変更しようかな。そのほうが夕方時間ができて夕食作りとかできる

6月8日(火)

今日は役所の手続きのため、息子を連れて朝から外出。妻が手続きをしている間、わたしは車内で子守。
その間にオムツ交換2回とミルク1回。生産性の高い我が息子。将来有望である。
帰ってきてから爆睡してしまった。たかだか2時間ちょっとの外出でこんなにも体力奪われるのか、すげーな子ども。まあ、昨日わたしあまり眠れなかったっていうのもあるかもだけど。

子が退院してきてからウチの実家で過ごしているのだけど、この1ヶ月弱の間で3キロ以上体重が増えてしまった。あ、わたしの話。ヤバい。

今週末から自宅に戻っての生活をスタートさせようと思っている。
それに伴って生活リズムもまた変わる。いつも1日のスケジュールを円グラフみたいな感じで作成してるのだけど、来週からの1dayスケジュールを策定してみよう。
「目標」を掲げるのではなく、実際の「生活」を可視化することが重要である。

6月9日(水)

明け方から子どもにミルクあげたりオムツを替えたりするので、どうしても早めに起きてしまう。
だからそのまま執筆もしちゃえと思って書きはじめているのがこれ。でも本当はプロット作りとかしたかったんだけど、それだとちょっと遅くはじめすぎた。
理想は5時くらいからプロット、6時半くらいから日記。でも今日は6時半を過ぎてから書きはじめたので日記のみ。午後の時間あるときにプロットを作ろう。

スケジュール管理用の円グラフシートを作り直した。
今までは食事管理用の記入欄も設けてたけど、執筆に重点化したものに作り替えた。
時間が限られるなかで、ダイエットも執筆もDIYもってのはやはり難しい。やりたいこと、継続していきたいことは何かってなったらやはり書くことだし、躁鬱をよくするためにも書き続けている方がいい。
この日記も公開を始めて6ヶ月目に入り、書きはじめたのは去年の9月くらいからだから9ヶ月くらいは経っている。書くことを目的としているのではなく、すでに生活の一部として組み込まれているってことだ。
いま14時。15時くらいまでは書き続けたいけど、そんなに書けるものなのか?知らん。

今日は昼前に酸化マグネシウムを飲んだ。便秘薬。用法を守るなら夜寝る前か空腹時ってことなんだけど、食後にガッツリ飲んだ。
多分これからお腹が痛くなる。痛くなう。今痛い。いや、正確には痛いわけではなくて便意が感じられているという状態。
もうちょっと粘れば大物を捕獲できそうなのでまだ泳がせている。
肛門付近にスパイを忍ばせているような気分で、そいつはスパイだけど社会的には門番として活躍していて、だから彼をわたしは肛門括約筋と呼んでいるのだが、彼の仕事を信じ切れるからわたしは便意を泳がすことができる。

↑『はたらく細胞』みたいだな。違うけど。
はたらく細胞みたいに何かを擬人化させた物語を構想してみたらいいんじゃない? と、ここまで書いて、今からトイレに行く。

帰ってきた。平和的解決を行なってまいりました。
この日記、しょっちゅう便秘の話とか書いてるんだけど、もういっそのこと便秘日記みたいな感じで、便にまつわる箇所をピックアップしてまとめようかな。
どこにも需要のない、ただ排出するだけの日記。便っぽくていいじゃん。
便論(ベンロン)。いいじゃん、便論。楽しみ。
全国の便秘でお悩みの雄便な便チャー企業の皆さんにご指導ご便撻のほどを施すスペクタクルアド便チャー、便論。
あぁ、くだらなすぎて悲しくなってきた。父親になってもくだらなさからの脱却は叶わず。

アニメ『オッドタクシー』にハマっている。
此元和津也脚本っていうので見始めたんだけど、台詞回しなどはこれぞ!って感じだ。
俺もこんな感じのセリフ書きたいけどこの間のラジオドラマではそういうふうに喋ってる部分オールカットなったから、基本的にはそういうセリフはある程度実績残してきた「許される」人たちじゃないとできないのだろうな。
だからこそ、わたしも許されたくてプロット磨きを頑張ろうと思ってるわけで。
グダグダ喋ってるクリスチャン・ベッテルっていう駄洒落を思いついたんだけどだからなんだっていう抑制の言葉が同時に生じてきてわたしのクリエイティビティに蓋をする。
でも「グダグダ喋ってるクリスチャン・ベッテル」をもってクリエイティビティとか言っちゃえる感性ははっきり言ってかなりヤバい、しかも悪い方にヤバいっていうんで、だからその抑制の言葉に押さえつけられてしまった方がわたしのダニみたいなカリスマ性は保たれていたかもしれない。
でも書いてしまったものは仕方がない。消せばいいという声には耳は貸さないし、そんな声もない。誰も何も言わない。
この日記、意外と読まれてるらしいけど、わざわざ声に出して「読んでるよ」とやるほどでもない。シェアするまでもない。
そんな日記を書き続けているわたしの頑張りになんらかの賞とかくれてやってもいいんじゃないかとひっそりと思っているのだけど誰か聞こえてる?

6月10日(木)

早朝6時よりこの日記を書きはじめている。もちろん朝だからなんの出来事も発生していないのだが、とりあえず朝から執筆ができるということが嬉しくてまずはそれを記そうと思った。
隣には息子が寝ていて、正確にはムクムク動いていて、ついさっきもオムツを替えたばっかりでそろそろミルクを要求してくるだろう。それまでの間はこうして自由にカタカタできるのであある。
このキーボードカタカタを一心不乱にできている時が多分一番状態のいい時なのだろう。そうか、このキーボードカタカタが重要だったのだ。
ある種のゾーンというかフロー状態というか、そういうものなのだキーボードカタカタは。
キーボードカタカタ、こういう文字数が多い単語は貴重だ。これでどれだけ稼げるか。造語でも構わない。
プライオリティは正規かどうかよりも文字数の多寡にあるのだからこの場においては。

今日から宜野湾の自宅にて子どもを見る生活がスタートするのだけど、まだまだ環境が整っていない。これから徐々に生活空間を子育て用に再構築していかなければならない。
多分この日記もそれについてのアイデアをメモしたり備忘録にしたりそういう使い方も増えるだろう。あまり見返したりする機会もないのだけど、いつもメモを作ってはなくしてっていうのを繰り返してるから、多分こっちの方がいいだろう。
難点は文章がやたらに長いので、どこに書いてあるか忘れる、或いは何を目的に読みはじめたか忘れる、そういったことは発生しそうだ。
そうならないように何ができるか?ここに書いてあることから抜き出して新たにメモを作成するという二度手間パターンを思いついた。そうしよう。
どうせ途中でやらなくなるのは目に見えてるけど、いつかこの箇所を読み返したときに思い出して瞬間的に復活するかもしれないし。
復活しても効率悪いから長続きはしないだろうけど。

まずは目的のはっきりしてる場所から考えていく。
お風呂。ベビーバスは用意した。石鹸もあった。バスタオルを子どもの身体を全部包めるくらいの大きめのものを買おう。4枚くらいはあった方がいいかな。洗面器を2つ買おうとしていたのだがまだ買えていないのでこちらも購入する。収納が狭いので、子ども用のバスタオルの収納場所を考えないといけない。家のつくり的に脱衣所が狭くて棚とかの置き所がない。いっそのこと脱衣所の外に棚を置いてそこにタオル類を収納しようかな。そのほうがスペースにゆとりは生まれるし。寝室に置いてある自作の棚をそこに持ってこようか。そしたら収納に困ってる除湿乾燥機もその棚の下の方に収納できるし、キッチンカウンタとの間で間仕切りも設置できて子どもが自力で移動しはじめたときにバリアになる。今日帰ったら長さとか計測してみてシミュレーションしてみよう。

朝お風呂に入れるために、しゃがんだ体勢でお子を抱えていたら、じんわりとわたしの腹部が温かくなってくる。「あぁ、あぁ、これは、おしっこだなぁ」と水分のじんわり広がるのに合わせてゆっくりと理解していく過程がなんだかおかしかった。
このゆっくりと感覚していくのって、なんなんだろう。
自分がおねしょしてしまう時もそんな感じだったような記憶。「なんだこれは?」から「あ、これおしっこだ」に変化するまでのなんとも言えぬ快楽というか官能というか。今日子どものおしっこがわたしの服に染みて広がっていくときに感じたアレは、「官能」だったのだ。

6月11日(金)

そういえば、仕事の関係で役所に提出しなければいけない書類を忘れていた。今日で出さなきゃ。
んでもって、受けなきゃいけないオンライン研修の動画配信期間も迫っている。あぁめんどくせぇ、、、。
世の中の大半はめんどくさいでできている。そのめんどくさいを責任の名のもとに背負わされている。そりゃ鬱にもなるわな。
『責任の生成』というめっちゃいい本があるのだが、考えたらあの本もまだ途中までしか読んでなかった。今日アトリエ行く時間あったら取ってこよう。

朝のこの時間に脚本とかのいいアイデアが浮かべばいいんだけど、「降りてくる」のって書きはじめた後だから、だから降りてくるのを「待つ」っていうよりかは「迎えに行く」って感覚なのよね。この中に、いいアイデアはおりませんか?みたいな。
そういえばPOSION GIRL BANDのネタの中で、飛行機の中で医者を探すっていうのがあるんだけど、面白かったなぁ。
あの人たちのネタって、ボケが突飛だけど、無秩序ではないんだよな。その場の文脈としてはおかしいのだけど、意味のつながりを欠いたことを言っているわけではない。言語的に意味は対応している。でも、そういうことじゃない。そのズレが面白い。
んで、そのボケのズレを強く指摘せず(ツッコまず)、過度に丁寧に対応しつつ訂正しようとしていく。ボケが突飛でかつ大味に見えるのも、ああいうボケ・ツッコミじゃないと客が気づかないっていうところのバランスを取っているのだろう。
なぜなら、わたしたちの日常会話は常に細かなズレを伴うから。細かなズレ(ボケ)とソフトな対応(ツッコミ)を見せられても、それはわたしたちにとっては漫才ではなくただの日常会話だ。彼らの漫才が面白いのは、わたしたちの日常を過度に誇張して見せている、そしてそれがそうとは観客に気づかれていない、という部分にあるのではないか。
とここまで偉そうに書いてあるが、これはサンキュータツオのPOISON GIRL BAND論からの影響である。

日常を過度に誇張して見せていて、それが観客にはそうと気づかれていない、って、これってチェルフィッチュじゃん? と今すこし興奮している。
なるほど。なんか、いろんなアイデアが「降りてきた」ぞ。別に迎えにいったわけじゃないけど、降りてきた。さっきのアイデアは迎えにいくものというのは訂正します。

ユタ論文を読みはじめた。もっといろいろと、基本的なことから調べなきゃいけないなと思った次第。
その論文では、とある病院に勤めていた元看護師の方にインタビューを取っていたのだが、その人の話では、勤めていた病院で、病院としてヌジファを行なっていたのだという。マジかそれ。
話によると、ある日ある患者が亡くなられたとき、あからさまなユタ(っぽい格好をしている人)が正面玄関から入ってきて病院中がざわついた、ってことがあったらしい。
他にも、亡くなってから数日後に病室にユタがやってきて、ちがう患者さんが入っているにもかかわらずそのベッドでヌジファをはじめたりと今度はざわつくどころじゃなかったと。
そんなこんなで、じゃあもう病院がヌジファできるようにいろいろ整えておきましょう、っていうふうになったのだという。
その論文では病院のその判断が遺族にとってのグリーフケアになっているのではないかと考察が進んでいくのだけど、わたしはそこに至るまでの過程に面白さを感じている。
ヌジファっていうのは霊を成仏させるってことで、それは亡くなった方のために行われる儀式である。
病院というのは生死の境界にある場所なので、死者のための儀礼をそこで行うことにはセンシティブになるのは仕方ない。だからユタが院内に入ってきたらざわつくわけだ。
ざわつくのを抑えるために病院は、ある意味でユタを内部に取り込んだようなかたちをとった。ワクチン接種みたいなもんか。
遺族にとってはグリーフケアでありつつ、病院にとっては迷惑行為の防止という、ある意味win-winの状態。
論文ではこれに「浮遊霊の出現の防止」というムショーに面白そうな論点も出現するのだが、あまり深掘りされてないのが残念である。

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