第22回[6月16日〜6月21日]

お子が生まれて1ヶ月過ぎました。いろいろ変わったけど、なんにも変わんないような、よくわかんない日々です。確実にいえるのは、はたらきたくないという思いだけは一切変わりありません。いやだいやだいやだ。アンチ労働。

6月16日(水)

日記を書くのって、過去を振り返ることだから、当然嫌な思い出を思い出したりもする。時々は遠い記憶を遡って引き出して、あのとき何を感じていたのかを書き出したりする。
日記っていうのはもともとそういう過去志向のメディアだと思うのだけど、そういうのってあまりもう流行らないのだろうか。
ブログなんかも、なんというかお役立ち情報みたいなそういうのとか、実績や信頼性を示すとか、将来的な顧客を獲得するためのツールとして機能させるのが一般的になってるのかな。
それはビジネスブログだけだろうけど、ただただ自分に向けられる、ふりかえりの機会ってのは、やはり少なくなってきてるんじゃないだろうか。

みんな未来を向いている。未来のために今の時間を使っている。そのとき、現在は未来に捧げられている。
我慢し、努力し、将来的な利益を増大するために現在の時間は使われている。それじゃあ窮屈だ、と、今の時間を豊かに、と、例えば『ふしぎの国のハイサイ食堂』ではそういうことを一つのテーマとして描いている。
でもあのドラマで扱えなかったのが「過去」だと思う。それぞれがつらかったことや苦しかった過去を抱えていて、でもドラマでは時間の都合上それらを詳細に描くことはできず、印象としてはそれらの過去を登場人物たちは乗り越えてきたものとして描かれているようにも感じた。
でも、現在と過去はそんなにすっぱり分けられるものではない。当たり前のことだが過去の出来事は今現在にも影響を与える。その過去を切断することはできない。
でもその過去があまりにも苦しいものの場合、その過去を振り払うためにアディクションに走ったりついには死を選んでしまったりすることもある。
アルコールや薬物などのアディクションは苦しい過去を切断する装置だ。その人にとっては生き延びるためのツールでもある。でもそれが現在や未来を破壊する副作用を持っている。
過去を切断して生き延びるための方法が未来を破壊する作用をする。
ハームリダクションの考え方は、生き延びる、という機能は活用しながら、そのアディクション対象への耽溺を少しずつ緩和し、未来を破壊するリスクを減らしていくというものだ。
それは言い換えれば、過去に少しずつ接続し直す、ということでもある。一気にやると苦痛だから少しずつ、一人でやるのも苦痛だから誰かと一緒に、そういうふうにして例えばアルコール依存の自助グループの活動などはプログラムされている。
躁鬱の治療も、なんかこれに近いんじゃないかと思っている。服薬で過去は切断できるけど、蓋をし続けることに対する罪悪感みたいなのも感じるし。
坂口恭平が「気分の波を乗りこなす」って言ってたけど、そういうサバイバルスキルみたいなのも磨いた方がいいんじゃないかとは確かに思う。
斎藤環と東畑開人の対談でもあったけど、セルフケアの術を弁えている人ほど深層的なセラピーが必要になってくる、でもじゃあ継続的にカウンセリングに通えるかっていうと、経済的な側面などからそれも難しい。
だからこそ、この日記なんじゃないか、と今は思っている。
薬の力を借りて過去を緩やかに切断し、それでいて自らの過去と向き合う。酸素ボンベつけて海に潜る感じっていうか、命綱つけて岸壁登るというか、そういうようなものだろうか。
今後も、考察はつづく。

6月17日(木)

いろいろ溜まっている。やること。

まず電気料金の支払いをする。んで、職員の所得税の支払い、雇用保険料の支払いやら手続きやらもまだやっていない。歯科検診の報告書も作って送らないといけない。掲示用の名簿も修正・更新をしなきゃいけない。それと、今日のうちでホームページの修正をやんんなきゃいけないんだった。忘れておった。
こうやって文章にしておくことのメリットは、まず文字数を稼げる。だから細かいこと、取るに足らないことも書くことができる、ってことかもしれん。
デメリットは、わたしが全然仕事をしていないことがバレてしまうっていうこと。
恐ろしい。怠惰は可視化してはならん。死への道だ。
でも希死念慮も最近ちょっと落ち着いてきてるんだけど、たぶん子ども見てるのが大きいのかな。
まあ躁がきて鬱がきてちょっと合間って感じだからかもしれんけども、でも死んでたまるか、って感じになってる。荒川修作じゃないけど、死んではいけない、て思いが生成されはじめている。

身体や行動の変容を環境(建築)によって促し、それによって意識が変容される。意識がどれだけ変容すれば、肉体亡き後も生命(意識)は死なずにいられるのか。
それが荒川たちが追い求めたテーマだ。「死ぬのは法律違反です」っていうテーゼは、ものすごくかっこいい。そういう言葉をキャラクターに言わせたい。

鼻炎でくしゃみが止まらない。躁鬱の薬と鼻炎薬を併用すると眠気とだるさがヤバくなる。仕事どころではないというのが正直なところなのだけど。

6月18日(金)

創作を事務的にこなすこと。事務を快楽にすること。
これができたらもうなんでもいけそうな気がする。
事務っていうとなんか簡単だけど面倒なことみたいなイメージがあるんだけど、事務が面倒くさいのは始めるまでの行程が多いというか、ハードルが高いからだと思う。
準備すること・ものが多い。例えば、PCを立ち上げ、フォルダを開きファイルを探して開く。この作業がとてもとても面倒くさい。
そんな大変なことはしてないんだけど、これがあるがために後回しにしちゃう。
わたしが一番苦手な事務作業は「記録」である。計画とか予定とかは好きなんだけど、記録はいや。面倒だ。
でもここを乗り越えなきゃいけないというか、逆に記録作業を好きになれば事務作業全般も好きになるのではないか。
あ、これは創作にまつわる事務作業のことですよ。仕事、わたしの場合は保育園だけど、それに関する事務作業なんてのは、どうやったって好きになれないし、できるならやりたくない。
仕方なくやってるけど、ブルシットだと思い続けている。ので、わたしが事務について喋る時は創作にまつわる事務のことです。
ところで、創作に事務ってあるのか?って話なんですが、ちょうど坂口恭平がいま事務についての連載をnoteでやってるけど、やっぱり事務大事だよねって背中を押された気になっている。
わたしは今年の3月からexcelに執筆記録をつけていて、そこに執筆にかけた時間とか文字数とかを記録しているのだけど、面白いことに鬱の時期には極端に文字数が減っているのが可視化されている。
これは多分単純に書くことが減っているということと、記録作業を怠っているということの両方の影響があるのだと思う。
やはり鬱は能率を落とす。途中いろいろと怠りながらも記録作業を4ヶ月続けている。
なかなか偉いじゃないか、わたし。
お金を生み出すかどうかよりもこれを継続できていることの方が重要ですよ、絶対に。
まあ、周りには稼げとかどうせ言われるんですけどね。そのときはうるせーと返します。
これから始まる創作サークル「傷舐め会」は、「目標設定より生活の可視化」をコンセプトに、創作にまつわる事務(主にスケジューリングと作業記録)を強化していく方向で、それをお互いに共有してやっていこうと思っております。
参加されたい方はご連絡を。わたしがフィーリングで選びます。

子を持つことではじめて経験することはこれからどんどん増えていくし、それに伴ってあらたな視点や価値観、考え方も生まれてくるだろう。
それを受け入れる余地を、余裕のある器を拵える必要がある。
感じ方、考え方を、どんどん変えていく。そういう姿勢が大事になるのだろう。
彼がわたしたちのところにやってきたのは、いろんなタイミングが重なった末の結果で、だから確率的に見ればほとんど「偶然」といった方がいい。
でも偶然やってきた彼のことがとても可愛い。多分これからさらにその傾向は進んで、可愛くてたまらない、愛しくてたまらない、そういうふうになっていくのだろう。
東浩紀の論を引けば、家族とは「偶然性」「強制性」「拡張性」という性質を持っている。図らずも一緒になることになったわたしたちが運営していくこの「家族」がこれからどこに進むのかは全くわからない。
でもどこに進むのだとしても、その行き先で出会ったものに向き合い、驚き、変化する姿勢だけは失いたくない。

6月19日(土)

そろそろ新作の骨格ができはじめてきたような気がする。
つっても、いまだにどこで放送するかとかそんなんも何も決まってないんだけど。
でもこれは書いた方がいいような気がして、いろいろ文献をあたっている。
今日は時間があればジュンク堂に行きたい。そいで、『ユニクロ潜入一年』という本を買いたい。すんげー面白そうです。ヒリヒリしそうだけど。ユニクロユーザーのわたしとしてはちょっと耳が痛い読書体験になりそう。

7月3日よりいくのさんたちと「傷舐め会」をスタートさせることになった。
共有できるルールというかレギュレーションが一つはあったほうがいいと思ったので、「目標設定シート」なるものを作成。
わたしこういうシート作り好きなのよね。書き込んだり記録したりするの苦手だけど、これは好き。
で、自分で作ったものは意外と記録が長続きしたりするってのもある。たぶん自分が必要だと思ったことだけで構成されているからだろうなっては思うけど。
やってみてどんどんアップデートさせていくから、より最適化していく感覚があるのよね。
目標設定というよりも計画策定の方が重要だと思うのよね。普通に考えれば、大きな目標がドーンとあって、それをブレイクダウンさせる形で計画っていうのが定まっていくのだと思うのだけど、大きな目標ってのは抽象的なものだから、よくわかんないんだよね。
だから1週間を超える先の時点での目標は持つべきじゃないと思っている。ギリ2週間。
創作してる人にとって最も強いモチベーションの一つが締め切りとか納期とかだと思うんだけど、正直それで作ってる時って焦りとか苦しさとかも付き纏ってきてしんどい部分もある。
でも、差し迫ったそういうのがないと身体が動かないというのも事実。じゃあ直近1週間以内で作るという宣言(コミットメント)をしあう、ってのは効果あるんじゃないかってのがこの傷舐め会の出発点。
公的な納期とかじゃないから焦る必要はないけど、宣言している以上シカトするのもな、、、くらいの感じで圧がかかってくくるのが理想。
うまくいくだろうか。わかんないけど、とりあえずはじめてみてからだな。
7月3日までの計画をとりあえず策定してみたので、それに沿ってまずは実行してみよう。どうなるか楽しみである。

6月21日(月)

昨日マッピーとおしゃべりしていた時に言われたのだけど、先日駄文帳に買いた氷の話が面白かったと。自分が体験しているわけではないのになんだか懐かしく感じた、ノスタルジックだったと。
これは嬉しい感想。出来事だけじゃなくて小学生男子がもつ特有の空気感を描くことができたということだと思う。
書き手としては、たぶん細かなディティールを書き込んだことがそういう空気感を醸造することができた要因なんじゃないかと思っている。そういうディティールが詰まったものを今後もちょくちょく買いていきたいと思った。

今朝は久しぶりにとんでもないだるさの中目覚めて、だから結局起き上がれずに昼前まで横になっていた。
だるさの塊としてベッド上に存在していた訳だが、この塊の存在価値を否定してしまうとそのまま鬱になってしまう。鬱の塊になってしまう。
書いてみてなんかしっくり来たんだけど、鬱のときって確かに「塊」感がつよい気がする。なんか硬直しちゃってるというか、固まって動けなくなっている感じ。
逆に躁のときは、「散在」のイメージ。なんかいろいろと意識があっちこっちジャンプして居ても立っても居られなくなってしまうのです。
つまり、鬱のときは自らの身体性を意識しすぎているということなのかも。逆に躁は身体性が希薄になっている。
見方を変えれば、自意識(自分が自分であるということ)がつよいモードのときは鬱、よわいモードのときは躁、ということなのかも。
なるほど。「どうせ俺なんて、、、」ってなる鬱状態のときって、確かに自意識過剰だ。万能感に浸ってる躁状態のときは自分の能力とか時間とか一切考えていない。
ものすごく腑に落ちたぞ。今日は寝込んでよかった。ナイス塊。

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