第21回[6月12日〜15日]

早朝の、みんなが寝静まっている時間に書くようにしたら、すこし長文になった。かといって内容が濃密になったわけではなく、むしろなんの意味もないことばかりを羅列するようになった。うむ、いい傾向です。

6月12日(土)

いま午前3時40分。目が覚めてしまって1時間ほど寝つこうと頑張ったが無理だったので、とりあえず書きはじめた。その瞬間に便意がやってきたのでとりあえずトイレに行ってくる。

今日は2ヶ月ぶりの通院の日。
前回の診察からどうだったかを振り返ってみる。前回の通院は4月17日土曜日。そのときに、いままでのエビリファイに加えて炭酸リチウムも新たに処方されたのだった。軽躁の症状が出ていたため。
通院の後、4月の下旬は鬱の状態が酷かった。家に帰りたくなくて、毎日夜海辺に行って数時間ボーッと座って、ある時はこのまま飛び込んでしまおうかと思ったくらい。怖くてやめたけど。
その後5月中旬くらいからは比較的落ち着いてきた。子どもが産まれててんやわんやだったのと、ラジオドラマを終えた達成感とかそういうのがあって状態が良くなったんだと思う。
まあ、いろいろと燃え尽き気味というか荷下ろし症候群みたいな感じも若干なかった訳ではないが、まあ大丈夫。
躁の状態はどうだろうか。いまはあまり焦燥感みたいなのはそんなに感じない。薬の効果か、そういう時期だからかは不明。
そういったことを今日は診察のなかで話す予定。薬は現状維持だろうか。たぶんそうだろうな。リチウムの血中濃度は調べるかもしれん。

『「できない理由」の見つけ方』っていう本を書きたいと思った。
もちろん本気ではない。「できない理由」を振りかざして、隙あらば「できない理由よりできる方法を探せよ」などと言ってくる輩を捩じ伏せなければならない。
「できない理由」は、説得力を持たせてはいけない。奴らはハナから納得する気なんてないのだから、どんなに正当性のありそうな理由でも、というかそういうのであればあるほど出力を強めて「できない理由」を潰しにくる。
体調悪いといえば自己管理がなってないといい、メンタルきついといえば心が弱いとなじり、時間がないといえば成功した人は寝る間も惜しんでやってるなどと嘯き、そういう正当な理由を積み重ねていけば最終的に「ウダウダ言ってねえでやれ!」とパワハラを敢行する。
だから正当な理由はいらない。「できない理由」として力を持つ条件は決まっていて、「神秘性」である。
「神のお告げ」とか言っちゃえば、相手はもう何も言えない。なんてったって神のお告げである。世俗の力が及ぶわけがない領域である。
それでも無理矢理やらせようとする奴には「テメェは神じゃねえ!」と応じれば一発である。

6月13日(日)

日曜の朝、マッピーとのおしゃべり会。今日もコメダはいっぱいで儲かってんなー。
ふたりの共通の友人が最近ブログを始めていて、その記事のリンクがSNSのタイムラインによく上がってくるんだけど、それをじっくり読んでみた。
ほとんどはお金とダイエットについての記事で、なんだかよく見るような内容ですこし残念だった。
もっと突き抜けてくれよ!もっと宇宙エネルギーとか生命の神秘みたいな、宇宙と身体が接続されることでお金が増えるみたいなそういういい匂いのする記事を書いてくれよ!俺はそういうのが読みたいんだ!!

マッピーには、わたしが太ったことがすぐにわかったらしい。仕方ない、3キロも増えてるんだから。
ダイエットの一番のリスクは他者で、二番目は実家である。家に他者がいる、双方の実家を行き来する、そういう生活を過ごしているとそりゃ太るわよ。

人間の認知機能にはシステム1とシステム2という二つがあって、システム1は直感的で本能的。システム2は理性的で経験的。
そんで、圧倒的にシステム1が優位である。認知の際にいろんなバイアスがかかっちゃうのはシステム1の影響である。
ご飯を食べているとき、とても苦しいのにどうしても全部食べようと頑張っちゃうのだけど、これは「損失回避性」がはたらいているからで、つまり目の前に出された料理はすでにわたしの所有物になっていて、それを失うことにものすごい苦悩が伴うわけです。
人間は何かを得ることの喜びよりもそれと同価値のものを失うことの方に強いストレスを感じ、回避しようとする傾向がある。
目の前に1000万円差し出され、財布に入る分だけ持って帰っていいよと言われたとする。どう頑張っても500万しか入らない。この時わたしは500万獲得したマンというより500万損したマンという自己認識になる。
もし最初から500万だけ渡されたとしたらウハウハで帰っていたはずなのに、同額を得られたにもかかわらずわたしは損をした気分になって帰路につくのだ。これがノーベル経済学賞を受賞したプロスペクト理論である(かはわからない)。

というわけで、美味しいご飯損したマンになりたくないわたしは完食する。
もうちょっと少ない量なら純粋な満足を得られただろうに、美味しさを失いたくなさから満足だけでなく苦しさまで抱え込んでしまった。得するためじゃなく損しないために苦しくなったのである。
大盛りにしなければよかったといつも思う。こうして、ダイエットの開始は翌日に持ち越される。そして永遠にやってこない。
あぁ、遙かなるダイエット。
だから仕方ないのである。ダイエットとは幻想だ。だから我慢なんてしても意味がない。システム2はシステム1には勝てねえんだよなと呟いて、追加のパフェも食べちゃえばいいのである。

6月14日(月)

今日までに提出しないといけない書類があって、朝からその処理をしたいんだけど出勤しないとできないから今日は早めに行く。
こういうときブルシットだなあと感じちゃうよね。これ意味ある?って書類に限って詳細な説明や厳しい納期が設定されてたりしてさ、ほんとやんなっちゃうよねー。

昨日の日記でダイエットについて考えてたのの延長ってわけじゃないけど、『〈責任〉の生成』を読んでたら関連する箇所にぶち当たった。
この本は國分功一郎さんと熊谷晋一郎さんの共同討議をまとめたものなのだが、國分さんの別の著書『暇と退屈の倫理学』のなかで展開されている「浪費」と「消費」の区別についての話を応用して議論をしていた。
「浪費」的な食事は物を受け取り味わうことであり、満腹になれば終わる。でも「消費」のとき人は食べ物を味わっていない。物を受け取っていない。
「浪費」は情報をきちんと「インプット」しているが、「消費」のときはむやみに食べてはいるが食べ物から情報をなんら受け取っておらず、逆に何かを食べ物にぶつけているような「アウトプット」が行われている。
過食になればなるほど、食事を味わえず、食べ物から情報を受け取れず、単なる吐口としての食事、あるいは反応としてだけの食事、そういうふうになる。ついつい疲れた時に食べ過ぎちゃうのは、それが「アウトプット」だからである。

雨がすごい。本格的な梅雨って感じがやっとしてきた。
小学校の頃所属していた野球チームは監督が鬼のようにスパルタで、ビンタやケツバットは日常茶飯事で今の時代だったら完全にアウトな人だったんだけど、もしかしたら当時でもいろいろ問題視されていたのかもしれないけど、まあとにかく怖かったのです。
だから野球がしたくて野球チームに入ったにもかかわらず、1日1回は殴られたり怒鳴られたりするから練習はできるだけ休みになってくれと毎日願っていた。
だから梅雨時期は大好きだった。
雨でグラウンドに水溜りができると職員室前の公衆電話から監督の携帯に電話をかけ「あの、雨で運動場が、なんか使えなくて、あの、今日、練習、えっと、どうしましょう?」と恐る恐るお伺いを立てるのである。
大概は「あ、じゃあ今日は休みでいいよ」と返答がきて、「わかりました」と冷静に答えながら電話に並ぶ他の児童たちの目も憚らず大きなガッツポーズを作る。
だけど、時折、室内とか雨が防げる場所とかでやるように告げられ、絶望に陥る。最悪だ。
がっくりと項垂れた後、部員たちにこの世の終わりとも思えるお知らせを告げる。全員が沈黙し、ダラダラと準備を始める。そしてダラダラと雨を避けながら練習を始める。
監督が到着するまではできるだけダラダラと、すこしでもやる気と体力を使わないように。
よく考えたらどうせやるならちゃんと練習したほうが充実して楽しいんじゃね?なんて思ったりもするけど、そんなことは無理なのです。
いかに手を抜くか、という技術はその時に磨き始めた。
その技術をわたしはその後の野球人生においてずっと使い続け、向上させ続けてきた。
もし小学校の頃の監督があれほどの恐怖政治をしていなかったら、たぶんいかに手を抜くかというこの技術はわたしには芽生えていなかったんじゃないか。そう考えたらありがたい。もちろんアイロニーであるが。

高校時代とかも、雨の日はたいてい筋トレの日だったりするんだけど、筋トレが大嫌いなわたしは誰よりも早く練習着に着替え筋トレルームに行った。
そしていろいろと器具をセッティングして使用した形跡を残した後で、他の部員がやってくるのを待つ。
そして部員たちが入ってきたのと同時に立ち上がり「どうぞ」と言って筋トレルームを出ていくのだ。
まるで今まで一人黙々とトレーニングをしていた孤高の球児のふりをして。
そこまでやるならトレーニングしろよ、っていう声は無意味です。いかに手を抜くかどうかがわたしにとっては重要なので、それの非効率性とか生産性のなさとかそういうのはどうでもいいのです。
どんなに無駄な労力を使おうとも手を抜くことを選ぶのです。
考えてみれば内容云々より文字数をかき集めようとするこの日記もその延長だと言えるかもしれない。そう考えると小学校の監督にもう一度感謝しなきゃだな当然アイロニーだけど。

6月15日(火)

昨日、中学時代の友人からコメダのオンラインチケットをもらった。その人はラジオドラマを聴いてたくさん感想も送ってくれて、シェアもしてくれて、それでいて「これで新作頑張って」ってコメダのチケットまで。
ガチで泣きそう。なんていい人なんだ。こんなできた方をわたしは知りませんよ。ありがとうございます。

今朝は2時過ぎに目を覚ましてしまって、しかも完全に覚醒してしまったのでそのまま起きることにした。これを書いているうちに眠くなるだろうから、そのときに再度休むことにする。

*  *  *

冷蔵庫の冷氷室に氷が一個も入ってなくて、優雅にアイスカフェオレでも飲もうかなっていう願望が2秒でショートする。
でも、氷って、なんかすごくない? べつに高級とかじゃないけど、特別感ないですか? グラスのなかの氷の形とか配分とかめっちゃセンス問われる感ないすか?

昔、多分小学校の1年生とかそのあたりの話なんだが、わたしの通っていた小学校の近くに氷屋さんがあった。
その氷屋さんはわたしにとっては帰り道にあるわけでもなんでもないのだけど、ある日友人と一緒に帰ることになったのもあってその店の前を通った。
するとその友人、名前は覚えてないのでSくんとでも仮で呼んでおくけど、Sくんが急にお店の裏にわたしを連れて行ったと思えば、おもむろにとある場所を指差す。それは氷屋から吐き出された氷が浮かぶ排水溝だった。
おー、氷だ! 砂漠に取り残された人みたいにその氷に興奮を隠せないわたし。太陽の光をキラキラと反射させているその氷をSくんはこともなげに水の中から取り上げ、口に運んだ。呆気に取られるわたし。
ここの氷おいしいんだよ、といかにも通ぶったことを呟いた彼に、しかしわたしは確実に羨望を抱いていた。
わたしも同じように氷を取り上げ口に含む。たしかに、普通の氷より美味しい気がする。やはり氷屋さんの氷は特別なのだ。
するとSくんは今度は排水溝の水を手で掬い、それをすすり飲んだ。
またしても呆然と眺めてしまうわたしをよそに、彼は何度もその行為を繰り返した。
ここの水が一番綺麗なんだよ、そうしみじみと言い放つ彼のことを、わたしは尊敬していた。

翌日から、氷屋さんはわたしの帰宅コースになった。
排水溝に氷が浮かんでいる日も、水だけの日もあった。氷があれば氷を食べ、水だけの時は水を飲んで、あぁ、おいしい、とうっとりするのだった。
他の友人たちと一緒に帰る時には、排水溝まで彼らを案内し、ここの水と氷が一番綺麗なんだよ、とSくんを模した言動をしてみせた。どうだ、わたしって通だろ?

ある夏の日、ひとり排水溝から氷水をすすっていると、ふと、これを母親にも飲ませたいと思った。
思い立ったわたしは、浮かんでいる氷を手に取り、家までの道を一目散にかけだした。
この氷が溶ける前に家に辿り着かなくては。腕を胸の前に保ち手のひらを窪ませて器を作った状態のまま全力疾走をする小学生の肉体に、太陽は容赦なく光と熱を浴びせる。
走っている間にも、信号待ちで待っている間にも、氷は溶けて液体になる。そしてついに、すべてが水になってしまった。
悲しくなったわたしは立ち止まって、その水が濡らした手のひらで自分の顔をなでた。
さっきまで氷を持っていたためかなり冷たくて、夏に全力疾走で熱くなった体にキンと響いた。
なにこれ!気持ちいい!
翌日から、わたしは氷屋の排水溝に通っては、そこで顔を洗うようになった。ときにはそれを頭から被った。最高だった。ヒェーと声を出したりもした。
するとある日、わたしのその官能的行為が作業着を着たおじさんに見られてしまい、わたしは急に氷のように固まってしまった。
するとおじさんは一言、汚いよ、と言った。
え? これは一番綺麗な水なんだよ?
汚いよ、それ汚い水だよ。そう言い残しておじさんは消えた。
彼の言葉は信じられなかった。こんなに冷たくて気持ちいい水が汚いはずなんてないじゃないか。

後日、大雨が降って、止んだ。わたしが排水溝につくと、水が茶色くなっていた。絶句するわたし。
とりあえず顔を洗ってはみたものの、それを飲む気にはなれなかった。
浮かんでいた氷を取り出す。それは透明でとてもきれいだった。
歩きながら氷を頬にあてる。きもちいい。今度は顔中に塗りたくった。幸せだ。
しかし体温ですぐに氷は溶けてしまった。
翌日も大雨で、排水溝は氾濫していた。雨の水と一番綺麗な氷水との境目がわからなくなっていて、わたしはとても悲しくなった。
それ以来、その排水溝で飲水したり水浴びしたりなんてことはしていないのだが、数年前にたまたまその店の近くを歩いていたとき、気になって排水溝をのぞいてみた。
そこに氷は浮いておらず、なんだか寂しくなった。あの頃の氷へのトキメキがじんわり溶けていくような気がした。

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