第13回[3月27日〜3月31日]

4月になりました。新年度です。いろんなことにイヤイヤ言いながらちょっとだけやります。そんな一年にします。

3月27日(土)

ほぼほぼラジオドラマ脚本の執筆は終わり。あとはSEを付け足したり細かい言い回しを調整したり、そういうの。
これは製本された後にもずっと経常的なものだろうから、厳密に言えば終わりはないのだけど、とりあえずは。

調子がいい時はできるけど、悪い時はできない。
前はできたけど、いまはできない。
人生の中ではそういう事柄あるいは状況に何度も遭遇するのだと、治療をはじめてから気づいた。
もうできない、そのことの寂しさと、あたらしくゼロから意味を構築していく過程に飛び込んだワクワク。その両方をこれから経験していく。
地続きではない、これまでの延長ではない、分岐した道を(も)進む旅。
いや、分岐だとニュアンスが異なる。どっちかというと、異世界、ワープ。異世界転生としての病。異世界に転生しながら現生でも生き続けるという、面倒臭さと豊かさが絡み合った生活空間。

ウィニコットの「依存」について。
絶対的依存→相対的依存→自立というプロセスの中で、ウィニコットは絶対的依存の大事さを強調する。これを経ることで相対的依存(一般的な「依存」の認識)から自立へと向かおうという意志も出てくる。
もし治療場面であれば、患者が医師に絶対的に依存できること、それは意志が患者にとっての「対象」となり、「使用可能」なものとなり、「報復」の恐れがないということが確証されると同時に「生き残る」ことがわかる、ということ。
医師を攻撃しても報復されない、傷を負ったはずの医師がケロッと生き残っている。その認識によって安心感を得る。
それは同時に依存している事実を認識することでもあり、相対的依存のフェーズであるともいえる。それを経て、自立へと向かうが、これは絶対的なものではなく、相互依存的なものである。
自立とは「一人でいられる能力」のことでもあり、これは他者といながら一人でいる、ということ。誰かと一緒にいながら自分一人で過ごすことができる、これが自立。

↑ちゃんと理解しているとは言い難いが、自分の中でなんとなくまとめるためにざっと書いてみた。ラジオドラマでは「依存」が重要なテーマになっているから。といってもたまたま読んだ論文に書いてあったことの備忘録として書いた、というのが実はあるのだけど。

ラジオドラマは、5月中旬に放送予定。だがまだ情報解禁の許可が出ていないので詳しいことは何も言えない。出演者についても何も言えない。もどかしい。

このドラマはいくつも参考文献があってだな。なのでそちらを読んでください。

・東畑開人『居るのはつらいよーーケアとセラピーについての覚書』医学書院
・認定NPO法人クリエイティブサポートレッツ、小松理虔『ただ、そこにいる人たちーー小松理虔さん表現未満、の旅』現代書館
・藤原辰史『縁食論ーー孤食と共食のあいだ』ミシマ社
・土井善晴『一汁一菜でよいという提案』グラフィック社
・滝沢カレン『カレンの台所』サンクチュアリ出版
・國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』太田出版
・坂口恭平『自分の薬をつくる』晶文社
・荒井裕樹『生きていく絵ーーアートが人を〈癒す〉とき』亜紀書房
・上間陽子『裸足で逃げるーー沖縄の夜の街の少女たち』太田出版
・岸政彦・石岡丈昇・丸山里美『質的社会調査の方法ーー他者の合理性の理解社会学』有斐閣

3月29日(月)

安心安全に生きていくことと、自分が生きていくうえで大切にしたいものやことを、うまい具合にバランスをとりながら生きていかねばならないわけだが、それがなかなか噛み合わないことが苦しさを生み出し、その乖離が解消されることなく延々続いていく、それが日常というもので、そのギャップはいっとき埋まったように感じられることもあるけど、すぐに顕在化されてまた苦しんで、その苦しさを乗りこなすためのコーピングリストを更新して、みたいなことを延々繰り返している。完全に癒やされることは当分なくて、いちいち立ち止まり嫌になって、あの頃に戻りたいと過去に縛りついて、人生は連続でありその記憶もまた連続的なものとしてわたしのなかにありながら、同時に自己同一性とでも呼ぶべきものはある時点で切れ目が入って分裂し、もう向こうには戻れないということに苦しみ、その断面の深さはふとした時に突きつけられてくる。

↑のようなことは、暇になると頭の中に巣食う。DMNが優勢になるとこの思考がグルグルし出す。暇を大事に!と心に誓いながら、暇というものへの苦手意識と不安を強く抱いている。

3月30日(火)

脚本のなおしがずっと続いています。細かい直し。削って削って、物語の進行に寄与しない会話はとことんカットして、より一本線に近い構成になっています。
ドラマというものがもつ機能というかドラマ作りの宿命というか、だから仕方ないのだけど、つまり物語っていうのは直線的な時間っていうのを想定したものなので、いつまでも同じ場所でグズグズ喋っているような会話を書きがちな私にとっては、向き不向きで言えばどちらかといえば不向き寄りというか、無駄がない、みたいなのが無理なので、まあ削る度に小さな痛みを覚えるわけです。
混線したりノイズが侵入したりそういうのができない、より純粋というか、蒸留水みたいにいらんもんを除去していってドラマチックな一本線を描く、エンタメというのはそういう特徴が求められるから脚本でお金をもらうのであればそのエンタメの作法をまずはきっちりインストールしてすぐ作動させきれるようにしなければいけない。

昨日はメンタルの具合がだいぶ悪かった。
なんかいろいろと投げ出して消えたいと思ったし、これからの生活のことが不安で怖くてまじで絶望的な感じになった。
今朝も、脚本直ししないといけないけどコメダきてmacbook開いてもなにもできない。ただツイッターを眺めている。
リンクが流れてきたので立岩真也のサイトを閲覧した。『介助の仕事』の紹介というかなんというか、その頁。それで、なんか文章を書きたいって思った。だからいま日記を書いている。それによってちょっとだけメンタル立て直した。

自営業しながら脚本家っていうのは、常に自分を律し続けなきゃいけなくて、結構つらい。
どっちかだけならプライベートとのバランスでどうにかできるだろうが(実際創作に追われてない時はできている)、両方やっているとプライベートの時間を削って原稿を書かないといけないわけで、単純に物理的に時間が足りなくなる。家事に取り組む気力も時間も奪われる。
もちろん日常生活が最もプライオリティが高いものだから、生活を崩してまでやるのはおかしいのだけど、そんなにクリアに切り分けられるものではなくて創作をすることで生活(とくに心理的な側面)が支えられているというふうにいろいろと絡み合っているから、だから単純にキツけりゃやめりゃいいって話でもない。
この微調整はこれからも常にやり続けなきゃいけないものなのでしょう。

3月31日(水)

令和2年度の終わり。最後の日も、全く何もやる気がない。

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