第12回[3月16日〜3月24日]

便通が悪い。いまにはじまったことではないが。便秘と下痢のサーキットを、延々グルグル回り続ける日々。快便が懐かしい。
このあいだ、腐れ縁の友人(立方)、略して腐れ方の匠くん、まいこさんわかこさんと何か真剣に話し合ってる風の場を持ちました。大事なのは「風」であることを再確認しました。

3月16日(火)

最近食欲が止まらん。それはリスクとストレスにさらされているから。

3月17日(水)

ふう。今日も朝7時からコメダで作業。昨夜のうちにディレクターに脚本を送信していたので、今日はわりと事務的な作業。執筆を管理するためのシートを作成した。作業時間、文字数を記録する。その積み上げを記録する。地道に文字数を増幅していくこと以上に作家にとって重要なことはない。アイデアは文字数に比例するので(経験上)、それをいちいち管理する。いままで可視化(管理)しなくてもなんとなくできていた部分を、他者に見せるためにシートを作成した。もちろんこれは来月から行う創作サポートグループの活動のためでもある。活動名は「創作作業員相互扶助会」なんてのはどうだろうか。でも「扶助」だと経済的な支援て意味が強いか。「創作互助会」かな。「傷舐会兼創作互助会」かな。いいな。「きずなめかいけんそうさくごじょかい」。声に出して読みたい日本語である。傷を舐め合う、というのはフリーランサーや自営業者にとってとても重要な、なんなら最もプライオリティの高いものだと思うのだよ。君もそうは思わないかい? とここで誰かに問いかけるふうに書くことで、そしてそれをいちいち解説というか説明というかそういう陳腐で野暮なことをすることで、文字数というのは容易に稼げてしまうのである。さっきの、「傷舐会兼創作互助会」をひらがなにひらくことでも文字数は稼げるし、というか考えてみれば、すべてのテキストは文字数を稼ぐために存在しているのではないだろうか? すべてのテキストは増幅したがっている。ウイルスみたいに、文字もディスプレイ上に貼り付いて増殖する。なるほど。さて、ここまで665字ほどを10分で書いた。1分あたり60字程度か。多いのか少ないのかはよくわからん。でももしこれが時間あたりでかんながえて多いのだとしたら、これだけ書くためには、「考える」ことをしてはいけない、ということだけは言える。考えていたらテキストはのろくなる。まずはフリーライティングでスピードを上げる。いまはこれは25分間書き続けようなんて勝手な規則をつくってやってみてるのだけど、つまり「ポモドーロ・テクニック」の規則に自らがんじがらめになりにいっているわけだけど、その「規則にがんじがらめになること」にある種の気持ちよさがあるのは事実である。これはきっと、熊谷晋一郎さんの「敗北の官能」と同様なものだろうと思う。そう考えると、わたしの生活も「敗北の官能」に溢れている。毎日作成しているスケジュール管理表&食べ物管理表(レコーディングダイエット)なんて、わざわざめんどくさいことを自らに課しているわけだが、それを継続しているのは、その面倒臭さに「官能」があるからだ。ほかにも、朝早く起きて執筆するとか、そういうこともきっとそうだ。さて、まだあと7分ほど残っているが、そろそろ終わる。いままで書いてきたことはなんだったのだ? 「敗北の官能」はどうなったのだ? そんなことは知らない。無責任さがわたしの唯一の取り柄なのだ。と書いているけど、わたしは責任から精神の調子を崩した人間でもあるので、(べつに責任感があるわけではないし、実際にいろんな失敗と不正をしている)こういう場所くらい責任も無責任もどっちでもいいということにしたい。だって勝手に書いてるだけで誰にも咎められたりとかはしないから。ここまで一体何文字だろうか? だいたい1370字くらい。原稿用紙に換算すると、3枚半くらいか。夏休みの読書感想文の指定枚数が3枚くらいだったりするから、もうわたしは夏休みの宿題を終えてしまったことになる。小学生に頃にはほとんど提出したことがなかったから、いまその禊を受けているということにしてもらえれば、あの頃の成績も修正してもらえないだろうか?そしたら、中学、高校、大学、もっといいところでいい成績ですばらしい社会人になれていたはずなのに。高評価をくれ。ピグマリオン効果ってわかるでしょ?さて、そうこうしているうちに残り2分ほどになった。もうここまできたら25分最後までぶっちぎってしまえなんてことを思っている。だいたい2,000字くらいまではいけるだろうか? この前脚本を、20,000字から18,000字まで2,000字削るのに3時間以上かかったのだが、2,000字を書くには30分もかからない。掃除するのは大変だけど、汚すのは簡単である。時間が来たから終わる。(1796文字)

3月18日(木)

信田さよ子『家族と国家は共謀する』のまえがきだけ読んだ。「ポストフォーディズム」と「母(あるいは母的なもの)」とを結びつける手捌きが圧倒的で見事。ここから先、何度も抉られそうで読むのが少し怖い。

3月21日(日)

昨日、保育園の卒園式が終わった。1年は早い。また新年度が始まる。すぐに準備をしなきゃいけない。
このグルグル回っていく時間感覚って、毎年不思議に感じる。3月でいつも何かが終わるような気がするんだけど、実際に終わるんだけど、でも日常は続いていく。
映画みたいにエンディングとかはないし、ずっと途中。
今という時間は、物語の暫定での最終地点ではあるけど、終着点はないし、生きている間はそれは訪れない。これって、結構残酷なことでもあるよなと思う。
ここで終わっとけ、ってポイント、いくつもあったと思う。これからも何回も経験すると思う。だからといって終わらせられない。
気持ちいいところで終わりたいけど、それができないなら、いつ終わってもいいように常に気持ちいい状態に近づけるようにしたい。途中を楽しみ続ける。
ただそれは単に目の前の快楽に溺れるとかいう話ではもちろんなくて、全ての出来事から楽しみを抽出する能力を磨く。その精度を高める。楽しむことと楽しむための準備をすることを同時にやり続ける。スピノザのいう「賢者」のあり方。

ドラマを書いてたら、演劇がやりたくなってきた。
『全体的に明るい』を再演したい。二人芝居だから、セリフの分量的に匠はやりたがらないし、俺もちょっと忙しい。誰か若者二人キャスティングしてやろうかな。どなたか興味ある人いれば連絡くらはい。多分誰もいないけど、スタンスだけは示す。

3月24日(水)

脚本の直しと並行して、浦島太郎について考えている。
あの不可解な物語が指し示しているのはなんなのか。最近、大きなヒントになりそうなのを見つけた。マラブーである。
カトリーヌ・マラブーという人の言っていること、たとえば「新しい傷」とか「破壊的可塑性」とか、そういうの。それがなんか、ばっちしやん!て感じになっている。
「新しい傷」っていうのは、要は物語化できない、古くならない、そういう傷のこと。いつまでも解釈不能な生々しい鮮明な傷。癒されない傷。理由もない、原因もわからない、説明もつかない、そういう類のもの。
そういうような、ある種「暴力」的な出来事によって自身の同一性が一気に分裂し変化してしまうこと、それが「破壊的可塑性」。
玉手箱開けておじいちゃんになってしまうなんてまったくもって不可解な現象、まさしく「破壊的可塑性」やん。
マラブーは本の中でも、「老化」を漸進的なものだけでなくまさに「破壊的」なものであると述べる。
わたしは前々からぼんやり考えていたことに「それでええんやで」と言ってもらえた気がして嬉しかった。それと、自分が苦しんできたこと、苦しみが決定的となったあるできごと、そのことを振り返り「そういうもんやで」と背中をさすってもらった気がした。
マラブー、あんた、俺のことをわかってくれるんか。となんかじんわりと癒された。
『偶発事の存在論』。最後の章とかまじで何言ってるかわかんなかったけど、よかった。

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