第11回[3月8日〜3月15日]

忙しい。確定申告もあるし、年度末のゴタゴタと新年度準備のゴタゴタで毎年雲隠霧隠をしたいのに全然できない。弱虫。はやいとこバックれたい。Wi-Fiのつながる山奥に行きたい。あとコンビニもあるところ。(写真は、知り合いの女優さんがつくった粘土イカ。いつもニヤニヤしながらつくってる)

3月8日(月)

あぁ、なんかいろいろと億劫である。やる気が起きない。焦りだけが充満して、それでいて何も手につかない。
といいつつ日記を書いているわけであるが、気晴らしならできる。でも、日記はあまりコストがかからないからできているんであって、時間も金もかかるならなかなか二の足を踏んでしまう。ちょっと退屈んなってきたもんで、文体をちょっとだけ変えようかなーみたいな。
って言っても文体って、変えようと思って変えるみたいなことじゃなくていつの間にかっていうか書き終わったらちょっと変わってるんじゃん?みたいなものだと思うんだけど、でも多分これ今変わってるよね、きっと。だってこれはちょっと口語体に近づけたっていうか、いつもセリフとか書くときにやってるようなやり方を踏襲してるだけだから、だからこれは別に文体変えてるとかじゃなくて、単にセリフ書いてるのと一緒っていうか、ちょっとモード変更しているだけなのです。
よし。これで文字数を稼げた。
文字数稼いだからって何かがどうなるわけではな決してないのだが、でも待って、なんで何かがどうなることでもないば? どうにかなれ! 文字数に応じて金が入ってくるシステムとか誰か開発しれ!って思っています。それなら大金持ちにはなれないけどなんとか生活をしていけるくらいにはなれるんじゃないかしら。

『ふだんづかいの倫理学』についてTwitterで呟いたら、著者の平尾先生からコメントが来た。
正義とケアについて。どちらも縁の下の的なものだが、正義は学問的な積み上げがあるのに対し、ケアは見えづらくてどこに位置付けていいのかも難しい、というようなこと。
先生が言及していた箇所(本の中にある)を読んで、なるほど、これは難しいなと思った。でも著者が苦慮したというのを知りながら読むのはとても興味深いというか、なんか面白い経験だった。ケア倫理について、もうちょっと考えてみたいし、調べてみたいと思った。

3月9日(火)

だるい。だるいながらもポモドーロテクニックを使って原稿を書いている。意外といいかもしれん。なかなかちゃんと捗るで。

3月11日(木)

今日も朝から書いてる。この生活はいつまで続くのか? でも朝の執筆はとてもいいもんで、この習慣自体は継続したい。
これをやれると、いろんなところに手を出せる。手を出すっつっても、書くだけだから、あるいは読むことと書くことだけだから、あまり金はかからない。書籍代くらい。
最終的にそれが金を生むようになると嬉しいけど、それはあくまでも結果だから。とりあえず自分が面白いと思ったことをやろう。書こう。

書いている。はやく構成を組み替えたいと思っているが、まだ〈肉〉を増やしたい。もうちょっと増やせそう。その後で〈骨〉を差し込んで、あまったものを削ぎ落としていく。そのプロセス。
目標を決めて、そこに必要なものを集める、という段階的なプロセスとはちょっと違う。
書くことで必要なものが生成すると同時にそれが作品でもある。「道具と結果方法論」。目的は作品の完成だが、完成形は見えていない。とりあえず形成し続けることで、ぼんやりとすこしずつ輪郭が発生してくる。それができたあとで整える。

ちょっと整理する。〈肉〉とか〈骨〉とかいっててもわかりにくいので、ほかの言葉に置き換える。これは親切心からではない。親切心もちょっとはあるのだが、〈肉〉とか〈骨〉とか言ってもあまり伝わらないだろうことは予測できるから、あらかじめ別の言葉でつくっておけばあとから楽である。という誰に向けてのものかわからない弁明も終わったところで、ちょっと考えてみよう。

まず、今回のラジオドラマでは、最初でディレクターとのミーティングというかブレストというか、そういうのを重ねてプロットを考えていった。これを便宜的に「書く①」とする。
その後で、どのようなキャラクターを登場させるかを考え、そのキャラクターに架空のインタビューをした。これは「書く②」。
その後で実際のセリフを、断片的に書いていった。これが「書く③」。
とにかく数を書いた断片を、今度は「型」に沿うように配置し、それら断片間のつなぎ部分を書き足していく。これが「書く④」。
んで、推敲(「書く⑤」)。
これが第一稿。第二稿からはこれを繰り返していく感じ(省くものも重点的にやるのもどっちもある)。
だから書くっつっても①〜⑤のプロセスを最低限3回くらいは回さないといけない。よく考えたらなんて面倒なんだ。ちなみにいまは第二稿なんだけど、三周目である。第一稿を書くのに二周したから。
そうかそうか。書いてみてわかったけど、ざっと5種類の「書く」を実行しているわけですね、わたしは。なるほど。勉強になりました。
もしかしたら気づいた人もいるかもしれない。そう、いままさに書きつけているこの文章は、ただ単に文字数を稼ぐためのものである。なんのための文字数か。目的などない。ただ文字数を稼いでいるのである。なんのため、など野暮である。

3月13日(土)

脚本講座をやりたい。で、そこでやるのは、『革命のヴィゴツキー』の「道具と結果方法論」を応用して展開したい。
もともとある方法論の提示・指導ではなく、それらを素材として、作品を作りながらそのための道具も作っていく、というようなもの。
具体的に言えば、作品を書きながらその方法論も分析・言語化するというプロセスも同時に進める。そういう脚本教室ができたらいいな。

そのためにまず『革命のヴィゴツキー』読んで(この「〇〇のためにまずは□□というのがこの本の論旨とはズレるのだが)、講座内容(WSプログラム)も考えながら、「講座の作り方」も考えてみよう。

妻を病院に送り、その待ち時間でマックに来ている。椅子が硬い。皮膚と皮下脂肪が背面にフィットせず、背骨の存在感が目立ってくる。痛みを少しでも和らげるためにお尻を前方へとずらしわざと姿勢を悪くする。

痛み、について。熊谷晋一郎の言葉が面白い。『「物語」と「身体」の頂上決戦』の過程で痛みが発生しているのだという。

3月15日(月)

昨日は朝からマッピーとおしゃべり。昼から〜夕方にかけて、妹夫婦とおしゃべりし、その後いくのさんとおしゃべり。夜には姉と妹夫婦と24時前までおしゃべり。
おしゃべりし過ぎて今朝は体力的にきつい。だるい。重い。おしゃべりのしすぎというより、単純に寝るのが遅くなったことによる疲れである。わからんけどたぶんそう。
よくもまあおしゃべりが尽きないものである。わたしはそんなに話したいことがあるのだろうか。いや、ない。反語。反語の使い手兼島。
はい、今読んだ箇所はなんの意味もない、ただの思いつきの羅列です。こんな感じでおしゃべりも続きます。特に意味があったり話したい内容があるわけではなく、たまたま口に出した内容がフィードバックし新たな発話を召喚する。
その発話がどのようなものかはあらかじめはわからず、発話者自身が最初から制御していたものではなく、会話自体が運動であり、会話のなされる空間あるいは関係自体が運動体なのである。

いくのさんとやろうとしていた創作研究会の内容が大方決まった。研究会というより報告会の方が近い。
要は、日々の作業の進捗状況を報告し合うサポートグループの立ち上げである。これは4月から始める。
創作作業を記録し報告し合うことで、モチベーションの維持とスケジュール管理、それらによってなにより重要である「継続的な創作活動」の習慣を形成するのがねらいである。
それぞれが行っている無数の「作業」を、記録し公開することで、本人が感じてもいなかった取るに足らない作業の意味や価値を再発見する可能性もあるのではないか。
熊谷さんの「ほどきつつ拾い合う関係」というのがそこに発生するのではないか。そういうことを考えている。
これについては、さっそく企画書に起こして、わかこさんや他のクリエイティブな人に見せて参加してもらえたらいいなと思う。

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