第10回[3月1日〜3月7日]

チョコ泥棒を構成するガラクタのひとつ、徹くんが、勝手に「チョコ泥棒の釣り」という公式っぽいYouTubeチャンネルを開設した。ただ釣りをしているところをGoProで撮影したもの。アカジンが釣れたらしい。アジカンと空目しそう。

3月1日(月)

3月になった。ここんとこ調子があまりよろしくない。
まず、ちょっとイライラする。それと、焦燥感がある。躁転してるからね。
でもそのことのキツさよりも、自制が効かないことに対する落ち込みがあって、それが苦しい。
DIYもできていないし、ほんとは畑を早く始めたいのだけど、忙しくて手をつけられていない。つまり「日課」をこなしきれていない。
脚本がいま一瞬だけ落ち着いて、エアポケットができたみたいな感じで、そのせいでその空いた時間を退屈に苛まれ、「空虚放置」されている。そのことへの焦り、イライラ。
退屈の第一形式で、気晴らしを見つけきれていない。ワーカホリックになることでそこから目を背けられるが、それは市場の奴隷になることとイコールであり、自分の首を絞めることにもなる。
この日記は気晴らしの一つであることには違いないのだが、ずっと日記だけ書くわけにもいかないわけで。

昨日や一昨日は、自分の脚本執筆についての方法論を言語化しまとめたりしていて、その時は苦しさから解放されている。いい気晴らしにはなっている。
でもこれをまとめているのは躁の為せる技で、つまりわたしはわたしのこの創作論に価値があるのだと、皆の役に立つのだと、考えてしまっているのである。
でもこれは、実現させた方がいいかもしれない。クリエイションについて考えるサークルの第一回は、わたしの創作論にしよう。脚本づくりを語りながら、それに哲学とか人類学とか、心理学とか経済学とか、そういうことを混ぜながらやることで他のメンバーにとっても有益になるだろう。
どうせわたしは空っぽなのだから、空っぽの良さを活かしてやってみればいいのだ。

3月4日(木)

源泉徴収票をもらうために前の職場に行った。久しぶり。といってもちょくちょく行ったりしてるのだが、今年に入ってからははじめて。
みな、変わらずあたたかく出迎えてくれてホッとする。1年しかいなくて、しかももう辞めたのに、会話も弾み、短いけれども和やかな時間を過ごせて嬉しい。
帰り道、「変わらない」というのがどういうことか、ふと考えた。数名の職員は今年度で退職するらしい。どこも変遷はあるのが当たり前で、実際のところ内部の状況も関係性も変化しているだろう。組織というのは人によって構成されているので、人員が変わればその文化や関係性も変化する。それでも、久しぶりに会っても「変わらず」にいられたのはなぜだろう。

そして話は変わる。「変わらない」については一緒だけど、変わる。
起業家精神に溢れるビジネスマンなら、「現状維持」を「停滞」と捉えたりするんだろうけど、「現状維持」の中にも(そして停滞の中にも)、そのような状態であることが必要な類のものがある。
というか、現状維持というのは、多大な努力が払われている結果である。
部屋が綺麗という状態を維持するには多大な労力を要する。同じように、企業にしても組織にしても、構成員の多大な労力によって現状は維持されており、それを叱責して「停滞」とか「努力不足」だと揶揄するのは、端的に経営者としての能力が低いんじゃないだろうか、なんて思ってしまう。

3月5日(金)

「変わらない」について。
オートポイエーシス理論は、変わらないと変わるを同時に成立させる面白い考え方である。別の言い方をすると、閉じると開くが同時に成立している。
メルロ=ポンティの〈肉〉の概念とオートポイエーシスはどうやら相性がいいらしい。
荒川修作の身体論/建築論は、〈骨〉によってガチガチに固められた「商品」を、あるいはわたしたちの思想や身体を、一度〈肉〉に引き戻すための方法である、と説明できるんじゃないか。と、ふと思った。

今日はこれから午後にラジオドラマの制作ミーティング。
放送日も5月15日(土)に決まり、いよいよ現実味が膨らんできている。
昨日もディレクターとオンラインで話したのだけど、ダイアローグがナチュラルで魅力的だと言ってもらった。あと、モノローグがちょっと多いという指摘も。それはわたし自身も思ってたことではある。
モノローグによってドラマ自体が停滞してしまう感じがある。きっとわたしの書くモノローグは、時間を巻き戻そうと、あるいは流れていかないように堰き止めようとする機能があるように思われる。
これはきっと岡田利規の影響で、彼のモノローグは一本の線に他の線を接続し混線させようとするような企みがある。
それはこの日記の書き方にももちろん影響を与えているし、考えてみればそもそもは日記という形式自体がモノローグ的である。混線の結果、目的地を見失ってしまっていたということがよく起こるのだが、とここに書きつけといてなんだが、目的地なんて最初からないのである、この日記に。
あるとすればただ継続すること。ラジオドラマのダイアローグとモノローグについて書こうとしたら少し離れてしまったので、戻ることはせず、このままこれで一旦終わる。目的地がないことのメリットはどこでも終わらすことができるということであり、TOMOVSKYのいうように、「着いた場所着いた場所で、ここが目的地だって言い張るんだ」ということができることです。ってことを書こうと最初から思ってて書けたから終わりにします。

3月6日(土)

昨日、2回目の制作ミーティングを終え、いよいよ第2稿(むしろこっからが本番)を書き始める。
また再度気合を入れ直してやらんとな。わたしはあんまり精神論とか根性論とか好きじゃないんだけど、気合い入れるとかやる気出すとかそういう、精神的エネルギーの出力方法とチャージの方法はちゃんと方法として持ってないといけないなって強く実感するようになった。
んで、いいのか悪いのか、そのエネルギーのチャージ方法は、日常をちゃんと過ごす、というところにしかない。そこがちゃんとできてないと、きついこととか難儀なことには取りかかれない。
創作に追われている時期(まさに今)は、エネルギの出力ばかりでチャージができず、なぜなら普段なら家事や日課に使っていた時間が創作に取って変わられるからなんだけど、そうなると生活リズムが崩れて創作終わった段階で疲れ切ってしまう。そして部屋が荒れているから普段チャージのためにこなしていた掃除や洗濯などの家事が一気に「難儀なこと」にシフトしてしまう。だからそれをやるのにどっかからエネルギーを備給していこないといけないのである。これぞ悪循環。
朝の時間がいちばん執筆も捗るのだが、リズム崩れてると朝は疲れが取りきれず動けなかったりする。こういう負のループを断ち切るには、やはり気合いなのである。
気合いが出ないからチャージしないといけないんだけど、チャージするためには気合を入れないといけないのである。これは抜けきれないやつなんだけど、抜けないといけんやつである。
だから、えい、と起きる。朝起きて、日課をこなす。その苦行。
細かく分割した苦行をこなすことで、つまりエネルギーを使うことでエネルギーを備給する。走ることでモーターの回転で充電する電気自動車みたいな、そういうふうなこと。それを日々こなしていく。やること、今必要なのはそれ。

アマルティア・センの「ケイパビリティ」のことがふと思い浮かんだ。なぜかは不明。
センは経済学者でありノーベル賞の受賞者でもある。彼は「開発」を富や所得の増大ではなく、人が享受し得る自由を拡大すさせることとし、富や所得はその手段の一つであり、それが全てではないとした。
人が選択できる選択肢(可能性)を増やすこと、その機能を高めること、それがセンのいう「自由」だ。
経済=お金というふうに考えてしまいがちだが、お金の動きというのは社会的な活動や価値交換に伴ってなされるものである。だから、例えばバリアフリーにすること一つとっても、それは福祉政策でありながら経済政策でもあるのである。なぜなら車椅子ユーザーなどの移動の「自由」を増大させることができ、それによって社会活動を行う可能性が高まるからである。
コロナで経済が停滞しているのは、人の流れ(社会的活動)が停滞しているということでもある。お金が流れないのは、人との交流が流れないということであり、それが閉塞感を強めてしまうのである。
そんな時に坂口恭平の『お金の学校』が話題になったのは必然的なものがあったのだろう。そこに書いてあるのは、経済=流れ、であり、その流れをどう流すか、という話だからである。
お金が増えるというのは結果的な話でしかない、と坂口ははっきり言っている。まずは何よりも「流れること」が最優先なのだという。流れる、堰き止めない、抽象的な言葉ではあるが、だからこそ多くの人に届いて納得を与えたのだろう。そこも流れている。
センのアプローチは車椅子ユーザーだけじゃなくシングルマザーとか高齢者とか、あとは貧困地帯とかのグローバルな視点でも活用できるものだし、もっと身近な日常レベルで考察できること。

3月7日(日)

今日は日曜日だが保育園に出勤している。
新入園の保護者への個別オリエンテーションを今月頭から行っていて、今日がとりあえず最後のそれ。ふう。
あまり人と話すのは得意ではないので、終わった後にはいつもぐったりしている。
それが終わったら脚本タイム。主人公のもつ「家族観」を可視化させドラマの中で提示させる必要がでてきたから、多分もう一度大川メソッドを用いてインタビューをやった方がいいだろう。

「家族」というのはいろんなイデオロギーの集合地点で、語ろうにも複雑すぎて何も語れない。
でもひとつ言えるのは、いまはなんでもかんでも「家族」に押し付ける傾向がある。なぜならそのほうが社会的コストがかからないから。
家庭のなかですべてを処理してねって。それを美化したような「自助」なんて言葉を現首相その人が積極的に使ったりするもんだから呆れてしまう。
家族という単位体で閉鎖させ責任もすべてそこに帰属させた方がお偉いさん方にとっては都合がいいという、そんなクソつまらなくてアホみたいにくだらない保身のためにどれだけの人が苦しい思いをしなければならないのか。

オリエンテーション終えてコメダへ来た。執筆。だけどその前にネットでいろいろ読んでる。
『革命のヴィゴツキー』の翻訳者らが主催したオンラインシンポジウムが面白い。てか、やっぱ『革命のヴィゴツキー』ちゃんと読もう。なんだかんだ途中から読めていない。読んだけど、まだ読めてない部分が多すぎる。
でもまあ、それでもいいのかも。なんていうのか、あの本でいえば「読む」という行為自体もひとつのパフォームだと捉えることもできそうな。読む、という「背伸び」をすることであらたな自分に生成変化しているわけであるし。
「書く」という行為で「書く自分」あるいは「書きつつある自分」「書いた自分」へと変化していくっていうのは、いま読んでいる保坂和志の『書きあぐねている人のための小説入門』でも言われていることだし、やはり制作という行為のなかでは弁証法的あるいは中動態的「過程」こそが「本質」的なものなのだろう。本質、なんて言い切っちゃうのもなんかヤだけど。
とりあえず今からドラマ脚本書く。絶対。ヤだけど書く。嫌だ。嫌だー!

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