第8回[2月12日〜2月18日]

日記に書くことが、まじでどうでもいい内容になってきた。これは、とてもいい傾向です。これで読者が減って誰にも読まれなくなったら、なんだって書ける! 怖いもの無しや! という本末転倒な公開日記はこちらです。
(赤い公園の「pray」のMVが切な過ぎて、見ると条件反射で涙が出てくるようになりました)

2月12日(金)

多分、軽躁に入っている。昨日は妻の仕事が終わるのを待ちながら、家で時間がグズついているのを感じ、その時間が過ぎるにツレ、皮膚の内側に言語化しづらい変な感じが広がっていくのがわかった。ハイデガーのいう「退屈の第一形式」なんじゃないかまさにこれは。時間に置き去りにされている。エネルギーが行き場を失って、内側で燻ってる感覚。そういえばここんところ、インスタのフォロー申請をいろんな人に送っている。あと、オススメの本の情報を何名かに送りつけている。エネルギーが燻っている場合には何かしら放出したほうがいいと思い、昨日は20時を過ぎてからアトリエに向かい、少しだけDIY。っていっても、デスクをちょびっと直しただけだけど。でもこの場に来ただけでもよかったかも。家で待っている間にモヤモヤ増幅をガードするため薬を飲んでいたから、アトリエ着いた頃にはもう眠気とだるさがやってきていた。

寝て起きて、4時。だけどやはり起き上がれない。夜に飲むと朝起きれない。やはり確定的だな。今朝から保育園に新しい職員が入るから、早めに行かないといけない。7時30分には園にいた。それから何やかんやあって9時過ぎにコメダへ。大川メソッドを使ったインタビューを書いたが、異様に長くなった。しかも、まだ終わっていない。この人主要人物じゃなかったんだけど、多分、結構キーキャラクターになってくるだろうな、と思う。

その後原点へ。現時点までのこの原稿は、原点で書いている。日記も日課の一つだ。躁転しても、躁転したときこそ、こういう日課が効くのかもしれない。書いててちょっと楽だ。ちょっと休んだら、家に帰って風呂入って、再度保育園に行く。結構バタバタだな。でもまあいいや。そうだ、明日には来年度の入園申込者に電話をしなきゃ。忘れないようにここに書いておく。ただ、この日記はそんなに見返したりしないので、忘れる可能性も大。

夜、いくつか思いついたシーンを書いてみた。ちょっとしたギャグあり。思いつきだけど。

2月15日(月)

服薬なし

週末はラジオドラマの原稿にかまけて日記を書いていなかった。ってべつにええにゃけども。今日は、いつもより遅くまで執筆に当たっている。そろそろ帰って寝なきゃ明日に響くべ。

断片的に書いているシーンを並べ替えて連続させいくつかのシークエンスが出来てきているのだけど、やっぱメインストーリーから外れた思いつきの部分ほど書いていて楽しいし筆が乗っている。だからこういう場面をさらに派生させ遊んじゃうんだけど、それをやりすぎるとメインの構成が味気ないものに感じてしまいあまりよくない。どうしても説明くさく感じてしまうのである。その解決策はいくつかあるだろうけど、わたしの取るべき道は一つ。メインストーリーで遊ぶ。あるいは、崩す。でも、それやりすぎるとおどろおどろしい肩書きの人から怒られそうだからその塩梅をみないといかんぜよ。むずいぜよ。

なんとなくテーマらしきものが見えてきた。貧困問題や引きこもりの問題、子ども食堂や「つくる」の意義など、そういったテーマを経由して、最終的には「退屈と気晴らし」に着地するだろう。いまのところそんな感じ。でもそうするとドラマ的に大きなイベントが発生せず、さいごも少し弱くなってしまう危惧がある。その部分もこれまた塩梅見ないといかんにゃ。ぬー。

とりあえずいまアトリエだから、一旦帰って寝るぬー。

2月16日(火)

服薬なし。

最近は躁転かもしれないという自己意識があるため、薬を飲むべきかどうかを躊躇っている。昨日は飲まなかった。この前マッピーと喋ったときに出てきた比喩がわりかししっくりきたので備忘録として記すと、薬っていうのは四番ピッチャーじゃなくて代打かワンポイントリリーフなんだと。マッピーはバスケをしていたので、それを聞いてシックスマンという言い換えをしていたけど、よくて代打の切り札あるいはシックスマンであり、大黒柱にしてはいけないし本質的にはなり得ない。でもそうしてしまう状態のことを依存症と呼ぶのである。

躁の渦中にあると、これまで鬱の時にフラッシュバックしてきて苦しめられた過去を、すでに乗り越えたものだと錯覚して人にベラベラ喋ってしまいそうになる。事実何名かにはそういう話をして、躁だと自覚した後で再度連絡をした。いま躁だからああいうことをベラベラ喋っちゃったけど、いちおう秘密でお願いします、と。これができたことは、自分を褒めてもいいんじゃないだろうか。たぶんここで制御しないと鬱になった時に確実に影響する。自己嫌悪がさらに深まってより重篤な状態になる。そうなることを、躁に入り始めたいまから考えないといけない。計画的にとか、後々を考えてとか、そういうことはわたしはあまりしたくないし好きではないんだけど、それをやらないといけないからやる。でもそのスタンスでも、苦手な将来展望に少しでも取り掛かれるのならいいのではないか、と思い始めてもいる。

最近は原稿書きで忙しく、やりたかった「クリエーションと癒し(あるいはセルフケア)」についての研究会(そういうテーマだったっけ?)を全然進められていない。企画書つくったのに。まあいいや。いまはとりあえずラジオドラマで、その目処が立てばちょっとは余裕できて取り掛かれるでそう。今朝も朝から脚本書き。プロの脚本家って、どんなスケジュールで書いてるんだろう。一日中脚本のこと考えないといけないってなったら、それはそれで地獄の日常だな。まあ、どちらにせよだ。この世界は地獄だから、その退屈のなかから気晴らしを見つけ出しそれに没頭し、あらたなサリエンシーに取りさらわれ気づきや学びを得、そうやって地獄のなかにおいてもすこしでもなだらかで快な場所を探して生きのばしていく。さて、そろそろ、仕事というべつの地獄へ行く準備をしよう。いま朝9時です。

とか言いつつ、地獄を回避しつつ日記執筆というゆるゆるな地獄にいま浸っている11時33分。2時間半経ったけど仕事はしてまシェン。

「つくる」ことは、その過程にあるうちは精巧に形成された予測モデルのなかにいると言い換えることができる。「自己そのものがサリエンシーへの慣れの過程の中で現れる。(中略)〈他〉への慣れが行われる過程において〈自〉が出来上がることを意味する。」(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』420頁)。みうらじゅんが物をひたすらに集めるのは、物からの応答を集めることでもあり、それは退屈しのぎであると同時にサリエンシーへの慣れでもある。ということは自分なくしであると同時に自分の出現でもある。

2月17日(水)

12時30分服薬

寒い。また寒くなってきた。マジで困る。

暇と退屈の倫理学は本当にいい本。面白い。わたしが鬱の薬を飲み始めて感じたことが、最終章の「傷と運命」で述べられていて、前に読んでいたときにはあまり気にしなかった箇所なのだが、そこがすごく響いた、というかめっちゃ理解がドーンと上がって嬉しくなった。

前々から気になっていた「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」。やはりそこが絡んでいたのだ。安静時などに活発化するDMNは、未来予測のために自己や過去を参照する脳のネットワークで、自己の参照や過去の知識の参照を司っている。DMNの過活動が鬱の苦しさは関連しているのではないか、というのがわたしの仮説で、本を読む限りあながち間違ってはいないのではないか、と思える。

記憶が原因となって痛みが出現する。自己反省の反復と痛みの慢性化は結びついている。我々は生きている限り傷を負っており、普段ならその傷はすぐに治癒され慢性的なものとならずに不可視化される。だが記憶とともに自己反省のプロセスが作動し慢性的な痛みを出現させる痕跡というのもある。それがいわゆるトラウマというもの。その慢性的な痛みが出現するのは、何らかの行為を行っているときには沈静化されるはずのDMNが活発化し、反省作用が激化してしまうのだ。その際には「サリエンス・ネットワーク(SN)」という別のネットワークとDMNの結合が亢進しており、このSNは予測モデルと大きな誤差をもたらす新たな刺激が探知された時に発動する。同時にSNは「前頭頭頂コントロール・ネットワーク(FPCN)」との結合を弱める。FPCNは小さな予測誤差に自動的(無意識的)に対応・調整するネットワークであり、DMNとSNとの結合が強まると同時にSNとFPCNの結合が弱まるということは、刺激に対して無意識で調整すること作用が弱まり、いちいち自己反省や過去の参照をする反応が強まるということだ。

慢性的な痛みを和らげるために急性疼痛を与えることが「快」(=興奮作用を抑える)になるという興味深い研究もあるらしい。目の前のことに没頭している間は苦しみから逃れられる。わたしたちが退屈に耐えられないことの根っこにはこういうことがあるのではないか。私たちは時間に置き去りにされ、過去がフラッシュバックし、その苦しさから逃れるために現在の奴隷になる。「するべきこと」に隷属する。「退屈」の苦しみに比べたら「するべきこと」の方が楽だからだ。でも、もちろんそれでいいはずがない(とわたしは思う)。どうせ隷属するならば、自分の好きや心地いいのなかで閉じたい。飽きたらアレンジしてあるいは別の好きを実践し、気晴らしの上級者への道を進む。これは別名賢者への道である。それが鬱を治すことにも繋がるのだ。その最たる例が坂口恭平だろう。彼の足跡を辿ると、ヒントがたくさんある。

2月18日(木)

脚本を書いてて、このworkflowyの使い方も少し変わりつつあるかもしれない(この日記はworkflowyというアウトライナーを使って下書き(ほとんど本文まま)を書いている)。コンプリートした分も可視化できるようにしたほうがきっとわたしの使い方的に都合が良くて、だからこれまでタスクとか終わったらコンプリートで消してたんだけど、それらは今後デリートで消して、書いたテキストを処理したり公開した分をコンプリートで消す、というやり方に変えよう。これだけ読んでも珍紛漢紛な人もいるかもなので、このブロックはべつに飛ばしてもよかった。ブロックの最後でこう書くことの不親切。これが人間だ。ちがうけど。ちがくないけど。

workflowyで書いた原稿のはじめのほうのパーツを、Scrivenerに流し込む。分量的にはアクト1としてはちょうどいいくらいかもしれない。ただしまだ書き直す前なので、ごそっと削るやもしれぬ。まあ、それはそれで。そろそろ初稿の締切日を意識しないといけなくなってきたかな。来週くらいでとりあえず仕上げたい。第2稿で結構なおすことになりそうだし。とりあえず思いつきをダーっとやる。スクリブナーでやってみる。

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