第6回[1月30日〜2月4日]

そろそろ日記公開も飽きてきたなぁなんて思ってたら、「楽しく読んでます」というDMがきて、やめるにやめられなくなったよ。
最近は作業中におジャ魔女どれみを流している。内容が作業にちょうどいいけど、主要人物たちの背景とかこんなにちゃんと設計されてたのね、などと思ったり。あと、作業に集中して見逃しても全然ショックじゃないのがいいね(なんて失礼)。

1月30日(土)

Youtubeで、みうらじゅんの「最後の講義」を観る。そのことを書きたいけど、もう今日は家にいて、なんか知らんがとても疲れているので書けない。
明日覚えていたら書こうかなと思ってはいるけど、でもみうらじゅんのことはいつも書いているからわざわざ改めて書かなくてもいいというか、どうせいろんな出来事に絡めて彼の思想について考察することになるだろうから、別にいいやっていま思ってきた。

今日は夕方、土鍋で米を炊き、炊き上がった米の上に玉ねぎとレタスとサーモンを載せて食べた。サーモン丼。
テンションは上がってたのだけど、こういう場合は普通の米の方がいいかもしれない。おこげがサーモンの邪魔をする。
「おこげがサーモンの邪魔をする」っていうラインがなんか気に入った。どうでもいいけど。
急激に目の奥が重くなってきた。眠いのかもしれない。最近は不眠の傾向がちょっとだけ改善されている気がする。寝よう。

1月31日(日)

腰が痛い。まじか。朝はなんともなかったんだけど、お昼過ぎくらいからなぜかじんわり痛みが出てきて、20時現在まじで痛いっす。なんでかな。姿勢が悪かったのか? ギックリ腰か?
もともと腰椎分離症という持病がありまして、これは中学時代からの付き合いなのですが、まじでいまだに尾を引いてるのですよね。
普通のニュートラルな立位だと痛みがあるので、若干前屈姿勢になっちゃうんですが、それだと動くのにだいぶ影響が出てしまって、そのせいで無理して背中を反らせるようにして重心を中心に寄せるみたいな変な癖がついてしまったりするんですよね、痛みがある最中は。
だから一番楽な姿勢を取れずに不自然な状態をキープしている感じになるから、またまた腰に負担が来て翌日は腰回りがバキバキになるっていうしょうもない(でも切実に困っちゃう)ループ。明日は大丈夫でしょうか、頼んますぜ。まじで。

とある遠い友人がSNSにあげていた画像が、なんかもうわたしとしてはうわっていうか、ワオっていうか、もはやここまで来たか、、、、みたいなそういう投稿がありまして。
どんなのかというと、普通にスタジオで撮られた家族写真なんですが、そのポージングが、ポージングというかシチュエーションなのです。ちょっと説明が必要ですね。
なんか、家族で写ってるんですけど、多分あれは公園とかでピクニックをしているシーンを家族全員で演じていて、とある日常的な家族の風景というか、抱っこしている赤ちゃんを母親が父親に預け、母親はその子のお尻(ウンチをしていないか?)を気にしているようで、その両親と赤ちゃんの傍でぼんやり立ちすくんで彼らの動きを観察している女の子(お姉ちゃん)という構図、そんでその周りにはビールの缶や哺乳瓶、ペットボトルのお茶、チョコーレートなどが無造作に置かれている、そういう写真です。
でも確認です、これ、写真スタジオでの撮影なのです。
だからもちろん、背景に公園の風景が入っているはずもなく、床も壁も真っ白、服も全員が同じトーンで揃えられています。完全に撮影モードなのです。
でも、彼らの所作は完全に日常のそれです。公園での家族の風景から彼らの身体だけを切り取ってスタジオ空間に貼りつけたみたいな、そういう写真なのです。
とくに奇妙なのが、被写体の誰一人としてレンズを向いていないのです。まるで誰もカメラの存在に気づいていないかのように。スタジオでの家族写真の撮影という「ハレ」の場で、「日常」を演じてそれを撮影する。これは、彼らがその「日常」を撮影されるに値するべきものだと捉えていることの証明としての写真なのでしょうか。
この写真に、見るものをどこかギョッとさせる「不気味の谷」のような、怪しげな引力があるのは、その日常と非日常の交錯がまさにそこで発生しているからでしょう。

書きながら思い出したのは、想田和弘さんの作品群です。
劇作家の平田オリザさんと青年団に密着した『演劇1』『演劇2』。岡山の「こらーる岡山」という精神科クリニックの医師とその患者たちを撮影した『精神』。
演劇1、2では、平田ら青年団の誰もが、カメラがあっても一切気にせずに演劇の稽古や日常生活を送っています。だから撮られていてもカメラを振り返ったり語りかけてきたりすることもあまりありません。見ている者は、青年団での日常を擬似体験しているような気になるのです。
翻って『精神』では、患者さんたちが本当に雄弁で、カメラに向かってよく喋る。監督がとくに質問をしなくても、自ら辛い過去の話などもカメラに向かって話し始めるのです。
青年団の役者とこらーる岡山の患者たちは、カメラを前にまるで正反対の行動をとります。なぜか。それは、青年団の役者たちが、カメラを「無視」して日常を「演じている」からです。
普通我々は、カメラを向けられると、何か切迫的な、受動的な、なぜだか語り出しちゃう、そんな状態になります。想田監督自身もカメラのもつ暴力性についてしばしば言及しています。でも、平田オリザや青年団の役者たちはカメラを意図的に「ないもの」として扱い、それで普段の日常を「実演」しているのです。
彼らにとっては、カメラに映っている活動や姿はいつものそれと変わらないものなのでしょう。でも、カメラを向けられて「変わらない」方が異常なのです。こらーる岡山の人々のように、どうしても意識してしまうのがカメラなのです。
この「カメラを前にしても変わらない」を実演できるのは、彼らがプロだからです。とくに青年団は、その主宰である平田オリザの方法論(現代口語演劇)のもと、「リアル」を徹底的に演じてきました。彼らの「リアル」は「リアル過ぎる」が故に、カメラの前では逆に不自然なのです。

日常/非日常、リアル/不自然、その交錯というか衝突というかが発生している友人のあの写真、図らずも芸術作品としての価値を持ちうるのではないか、などと思ったりしたのだが、もしかしてああいうシチュエーションで撮影できますよ、というパッケージが写真スタジオのメニューにオプションとしてセットされているのだろうか。
もしそうだとしたら、いよいよとんでもない時代になってきた。
写真スタジオが日常的なシチュエーションで撮影をするということは、非日常が日常に侵食してきているということだ。SNSではとっくの昔にそのような現象が起きているが、それがもはや個人のアカウント内での現象ではなくなってきているということである。わーお。すげーや。

2月2日(火)

9時10分服薬。

昨日は『現代思想』2月号の、斉藤環と東畑開人の対談を読んだ。端的に、すばらしかった。これは必読の対談。この対談がスゴイ!みたいな特集があれば(あったような気もしないでもない)、國分功一郎と熊谷晋一郎の対談(『責任の生成』)とこの2つは絶対にノミネートされるべきものです。

症状が軽い人ほど深層心理学的(セラピー)的なカウンセリングが必要で、グチャグチャな人ほど浅層心理学的(ケア的)なカウンセリングが効果が出やすい、ということ。
セルフケアをして適応が果たされているが、それが逆に他者と繋がれなくさせてしまい困難を抱えてしまっている人。そういう人に深層を扱う心理療法を施す。
逆にセルフマネジメントが破綻をきたしている人、そういう人には浅層心理学、たとえばソーシャルワークや教育的アプローチ、認知行動療法などが有効である。
わたしはおそらく前者である。セルフマネジメントの術はいくらか心得ているし、それを日々実践してきた自負もある。それでも心に困難を抱えてしまっている。
だからどこかのタイミングで、深層に触れるような、精神分析的だったり力動的だったりの心理療法が必要になってくるだろう。痛みを吐き出したり、苦しみを取り出して分析したり、そういう機会は持つ必要があるし、持ちたい。スキーマ療法とか、ちょっと調べてみよう。なんならカウンセリングを受けてもいい。

ただ、メンタルの調子が悪くなると、確実に日常生活リズムがダメージを受けるので、一旦ちゃんと作りなおして、ケアの基盤を安定させる必要があるだろう。いまはその段階である。
いまは朝に1日のスケジュールを立て、基本的にはそれに沿って活動ができている。この基盤に強度があるからこそ、深層にいけるのである。
その整備なしに深層に入り込むと、心も生活ももろとも崩れてしまう。焦らずしっかりと基盤を固める。運用モードを心がける。

もしかしたら脚本を書くあるいは物語を書くということが、セラピー的な効能を持っているのかもしれない。DIYや料理と違って物語創作は、いい方にも悪い方にも作用する。それはセラピーに近い。
DIYや料理は、それでいえばケア的だ。それをやっている間は楽だし、スッキリするし、ちゃんとこなしている感じがする。
脚本はある意味で苦行である。でも、突き詰めた先に光が見えることもある。見えないこともある。三宅隆太さんが、脚本療法みたいなことをラジオでしゃべっていた。いつだったろうか。それについて調べて再度聴いてみよう。たぶんアレがヒントになると思う。
実際に『The Story Of Our Life』という一人芝居を書いて、それが自分自身を救ったという経験がある(正確には上演を観て、だが)。
最近なかなかスクリプトライティングを避けているが、そろそろやってみるのもいいのかもしれない。それが作品を前進させると同時に自分を癒すことにつながるかもしれないのだから。

2月3日(水)

9時20分服薬。

今日は3時半に起床し、脚本執筆の準備をする。
登場人物である中学生男子のキャラクターに作者であるわたしがインタビュー。わたしが造形しているというより、キャタクターとの架空の対話によって生い立ちが形成されていく。
だから、このインタビューを書きながら、あぁそうなんだ、とか、だからこうなったんだ、とか、そんなこと考えてたんだ、とか、そういう気付きや驚きがキャラクターからもたらされる。
これは完全に中動態に拓かれた創作方法だと思う。キャラが勝手に動き出すという感じではなく、キャラからもたらされる情報や刺激を自ら能動的に受動しにいくという能動的受動と言い換えてもいいかもしれない。
國分功一郎『中動態の世界』、森田亜紀『芸術の中動態』、岸政彦ほか『質的社会調査の方法』、これらからの影響を受けた創作方法である。
でもって、これらの本は今回の脚本においてもリファレンスとなるだろう。作ることについての作品。乗代雄介じゃないけど、たぶんわたしもそういうのにこだわりたい性質が作家としてあると思う。そのスキルはともかくとして。

7時30分、コメダ宜野湾店で執筆。昨日も朝からコメダで今日もコメダ。このリズムはなかなかいいかもしれない。朝の静かな時間は自宅でやって、ちょっと集中が切れてきた段階で身体ごと移動し別の環境へ。そういうフレキシブルな感じで当たらなければ。今回の創作物はわたしにとってはそれほど大きなものである。なんかプレッシャーもめっちゃ感じるし。

昨日今日は午後からの出勤だから、事務作業も静かな場所で集中してできるしめっちゃ捗る。わたしこう見えても事務能力高いのです。めんどくさがりでやんないだけで、やれば結構Excelとか関数ガンガン活用して作ったりするし。
Macbookだからもともとnumbers使ってたけど、もう物足りない。イライラすることも多いけど、そこも愛おしくなってくるから憎いね。workflowyの次に使ってるソフトがExcelだったりするかもしれぬ。
ほんとはEvernoteとかScrivnerとかもっと活用したいんだけど、まだまだ使いこなせてない。ちゃんとお金払ってるのにもったいないけど、なんだかねー。モチベーション上がらんぞ。
Evernoteどう使えばいいんだ。わからんぞ。てかめんどくさいってなっちゃう。結局LINEとかにメモったりすることの方が多いし、後でちゃんと確認しよってサイトをポイポイクリップしてたら完全にブラックボックス化して、いまもう蓋開けたくないみたいな。臭いもの状態よ完全に。
パスワード忘れた時とかに開くくらいで、でも結局パスワード系は一番出力してファイルに保管っていうのが一番いいしね。セキュリティ的にもオペレーション的にも。

読書の時にはリアルな本の方が読みやすいけど、執筆しながらだったら開いたページを維持するために左手が拘束されたり引用するたびに空で何度も唱えて(覚えて)から本を伏せるようにして一気に書き込んだり(たいていちょっと間違えてる)、開いたページを肘で抑えて窮屈なタイプになったり、いろいろと不便なのですが。iPadだと一発で解決するからめっちゃ楽やん。資料になる本はもっかいkindleで買い直そうかなって思うほど違う。

ふいに枡野浩一の歌を思い出す。

無駄だろう?意味ないだろう?馬鹿だろう? 今さらだろう?でもやるんだよ!

これ、カッコ良過ぎないか? でもやるんだよ!ですべてを持って行く力をわたしにもくれ。『霧島、部活辞めるってよ。』の野球部キャプテンみたいなナイスガイである。スカウト来てないけどドラフトまではやるんだよ! 素振り下手くそだけど、もう同級生はみんな引退しているけど、でもやるんだよ! なんか力が湧いてくる気がする。
サイダーのように力が湧き上がる。never young beach 好きなので。
サイダーと買いたことで赤い公園思い出してしまう。はぁ。津野米咲の自死はわたしのなかで結構喰らった。まじか、、、となった。サイダーは特に一番好きな歌で、佐藤千秋の歌唱とこの曲のメロディがめっちゃマッチしてると思ったんだよな。石野理子のボーカルもいいけど、佐藤千秋もやはりいいよね。はぁ。

2月4日(木)

7時22分服薬。

驚くべきことに、この日記に読者がいるのだという。
身内ではないぞ。身内はみんなわたしに甘々だから公演も観にくるしテキストも読む。でも身内じゃない、とくに知り合いでもない人が読んでくれているというのは、とても嬉しい。
みうらじゅんが小学生の頃、付けていた日記を母親が密かに読んでいることに気がついた彼は、それ以降文面で「盛る」ようになったのだという。そこに「自分なくし」の端緒があったのだ。
そうか、「盛る」は「自分なくし」なのか。「ありのまま」の疑問視。「盛る」ことで容量を増やし、自分の輪郭を見えなくさせる。そういう方法論なのだ。わたしももっともっといろんな「盛る」方法を会得したい。真面目なわたしは話を盛る。どうも、ハナシ盛ル蔵です。

朝だからか冷えてるからか、右手の動きが鈍い。タイピングにカクカク感があって変な力が入ってしまう。今日も朝からコメダで原稿。その前にこの日記。
朝一の日記なんて宿題昨日やり忘れて寝ちまって朝学校で先生来る前に乱雑に書き殴るやつじゃん。そう、メンタリティはあれと一緒だ。とりあえずマス目を埋める、そのためだけの行為である。ふう。とりあえず、原稿ファイルを開くのである。

今日で、主要登場人物3名のうち一人分のインタビューが終わった。あと二人。とほほ。
一人分でA4用紙15枚分ほどになった。これをあと2回ってマジ? 正気? 本気で言ってんの? わたしよ、とほほだぞほんとに。

『縁食論ーー孤食と共食のあいだ』を読む。
脚本において重要なリファレンスになる本だと思った。まだ2章のはじめくらいまでしか読めてないけども、いくつも引用したくなる箇所があった。
子ども食堂は、確かに貧困対策において重要なものかもしれないが、それじたいをソリューションとして捉えるのは違う。
それだと政府の経済対策を補完するものとしての位置付けとなってしまい、子ども食堂がもつそれ以外のポテンシャルに覆いをしてしまう。ゆるやかでしなやかなつながりをつくる、そういう可能性のことである。制度化されてしまえば、外から「基準」や「規則」をあてがわなければならなくなり、それに従える人が運営し、それに従える人が利用する、そういうものになる危惧がある。

子ども食堂って、どこかフードコートと似ている。笑顔だろうが不貞腐れていようが、無言だろうがおしゃべりしようが、一人だろうが大勢だろうが、なにも問われず居られる場所。そういうフードコートが、わたしは好きなのです。
数年前に研修で熊本に行った時、旅行雑誌に載っているような洒落たお店ではなく、熊本市内のイオンのフードコートで二日連続でご飯を食べた。
地元の男子高校生(おそらくラグビー部)の恋バナを盗み聞きしたり、旦那の愚痴を言い合っているママ友のそばで鉄板焼きを食べたり、結構充実した時間だったのである。
地元の人の生活の一部をのぞいているような感覚にフードコートはさせてくれる。家族連れや友達同士、そんなに着飾らずに普段着で(なんならパジャマに近いような格好も)居られる場所としてのフードコートを、もっとローカルに、もっと敷居の低い場に移したのが子ども食堂だということもできるのではないか。
あまり子ども食堂についてリサーチしたことなかったけど、そう思えば興味が湧いてきた。あまり丹念にやりすぎると脚本が調査報告や事例報告になってしまう危惧があるので、創作とは切り離してリサーチする必要があるだろうけど。

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