第5回[1月25日〜1月29日]

緊急事態宣言発令のためコメダが時短営業になり、日記難民となりました。家でテキスト書くってのはむずいですね。家にいる間は、家事をしてしまいます。目についてやっちゃって、部屋がキレイになっちゃいます。。。ええ、健全です。(写真は、自宅ではなくアトリエのわたしのデスク)

1月25日(月)

6時50分服薬。
金土日と、日記を書いていない。というのも、コロナの緊急事態宣言等の兼ね合いで、いつも日記を書いているコメダが時短営業中なのであります。閉店間際に書き込んで30〜1時間ほど、ダラダラと書き漏らすこの時間が、わたしにとっては結構大事な時間だったんだなと今実感している。
今これを書いているのは自宅の自室なのだが、風を全方位に送り続けている乾燥機と、その風の受け手である洗濯物に囲まれながらの執筆である。乾燥しちゃいけないとコップいっぱいのお水を傍に置いて。

日記というのは不思議だ。書けない時がない。もちろん時間がない、体調が悪い、やる気がない、など書けないときもあるのだが、そんな時でも「書けない」とは書けるのだ。書くかどうかは別として。

1月26日(火)

7時服薬。
今日もこれは家で書いている。けど、書けない。全然書けない。書けないと書いて文字数を稼ぐほど書けない。
コメダだと、他者の関心や行為の方向性が基本的にはこちらに向かわないし関係してこない。店員さんがオーダーを取ったり閉店時間のお知らせをするくらい。でも家だと、妻の行動はほとんどわたしにも関係することだから、iPadの画面だけに集中できないというか、こんなことをしている場合ではない、というような感じがどうしても生まれてしまう。
書こうと思っていることは、実は結構メモってたりするのであるが、でもなかなかそれを日記に反映することもできない。
普段は、客席に座ってiPadでWorkFlowyを開き、その瞬間に思い浮かんだ言葉をそのまま入力するから、その時までは何を書くかなんてほとんど考えたりもしない。
でも今の緊急事態宣言下ではお店も閉まってるし、短時間で書けるように予めテーマを決めたりしているのだが、そういうので固まってしまうのだろうか。イップスみたいなものかもしれない。

ボールの到着点があらかあじめ決まっていて、そこに到達させなければならない。そのプレッシャーから身体運用の所作を忘れてしまいボールが投げられなくなる、わたしはそういうスローイングイップス患者の一人だ。
以前noteに「イップスについて語ることと、語ることについてのイップス」という記事を書こうとして、あれは多分書きかけのまま放置されている。結構な長文を書いたけど、あれも今読み返したら新鮮に感じられるだろうか。

などとちょっとノってきている感はあるが、とにかく眠くなってきた。集中もなかなか入り切らない。今日はここまでにする。明日はアトリエで書こう。あるいは、早い時間にコメダで書こう。

1月27日(水)

8時30分服薬。
今日は朝から調子が悪く、ここんとこずっと頭痛があったのだが今日もそれが続いていたので、エビリファイとイブクイックを一緒に飲んだ。ここ何日かはそんな感じでブレンドというかミックスというかされたものを飲んでズシンと重みのあるなまどろ様の動きが見られるようになった。
これは多分ただのなまどろじゃなくて、スーパーなまどろだ。エビリファイとイブクイックが悪魔合体してスーパーなまどろ様が生成されたのである。

朝は妻が朝食を作っていて、その調理音を寝室から聞いていたのだが、何度もガスコンロのスイッチを入れては消し、入れては消し、これは今何を作っているのだ? 何かを炙っているのか? などという興味と、でもやり過ぎてガス漏れしてないだろうか?という不安で起き上がってキッチンまで行くと、何度やっても添加しないのよね壊れたのかなガス屋さん呼ぼうと思うんだけど、と困った妻の姿があった。
見ると点火する部分がちょっとズレていたので直したら一瞬で着いた。期待も不安も全く外れていたのだがそんなことはどうでもよく、でも正直朝食を食べる気にはなれずに、カットされていたキウイだけを食べて薬を飲んでまたベッドに入った。

起き上がったのには他にも理由があって、調理音がきこえてくるベッドの中で、昨夜見た『マチネの終わりに』という映画のことを思い出して少し落ち込んでいたから。わたしはあの作品(小説も読んでいた)の登場人物の何名かに非常に共感してしまうのである。
これまでの経験から傷つけ傷を受けここまで来ていて、あの作品でのコアな思想となっている「未来はいつでも過去を変えている」というテーゼをわたしは頭の中で反芻しながら、あの楽しい思い出は今となっては苦しさの源泉でしかないな、とか、未来においては大切な思い出となるのだろうか、などと考えていた。

ちょっとナイーブすぎることを書いてしまった。でもまあ事実なのだから仕方ないし、これも日記のネタ(文字数稼ぎ)になるのである。というわけで、落ち込むわたしは体を起こし、こんなときは薬で解決だ!と薬を飲みに行ったのであった。

薬を飲む、ということだけでここまで書いてしまった。別に薬のことを書こうと思ったわけじゃなかったんだけど。。。これが場所の力。というのはこれは家じゃなくて原点(喫茶店)で書いているから。
今お昼の12時20分。夜でもない。起きて準備して、出勤の前に原点に立ち寄ったのである。ここはわたしにとってはデイケア施設であり、ここにきてボーッとすることが生きていくうえで非常に重要なパートを占めているのである。今日はボーッとせずにこのテキストを書いているのだけど。
でも、コメダもそうだけど、場所への依存はリスクでもあるよね。閉まってたらどうしようもないから。そんなときはアトリエで書けばいいだけの話だけど、アトリエいたらDIYの方を優先しちゃうからなあ。悩みは尽きないっすな。

1月28日(木)

9時服薬。
昨日はほとんど眠れず、結局ベッドに入ったのも明朝5時頃。眠気も全然来なかったので、アトリエに行き作業をしていた。んで、アトリエを出たのが4時頃で、その帰りの車中がすんごい眠くて、よくたどり着けたなわたしよ。車がいないのをいいことに、高速道路の2車線あるレーンの真ん中を走っておりました。端によるとぶつかるかもしれないじゃん?はい、危険運転ですね。気をつけます。
でもこれは淵の王が送り込んだカク・セイヤと飛んでフーミンの仕業なのです。こいつらのせいでわたしは不眠で困っているのです。こいつらはなぜかバディなのです。
8時過ぎに起床し、1時間ほど遅れて保育園へ。今日は国語レッスンの日だから、その準備をする。

最近は、自分が鬱であることを素直に受け入れられているような気がする。
以前から気持ちが塞ぎ込んだり、疲弊しきっていろんな欲求が無くなったり、悲観的になったり、などが強く出ることはあって、数年前にはじめて自分自身を「鬱なんじゃないか?」と疑ったのだが、でも結局は「甘え」と結論づけ、自分自身にさらに鞭を入れていた。
そういう日々を繰り返した結果、自分が自分で鬱であることを認めるまでに2年半ほどかかった。そこから周囲に自分が鬱であるだろうことを伝えるまでにさらに半年ほどかかった。
言い換えれば、「俺は甘えてるんじゃないか?」を乗り越えるのに2年半、「俺は甘えてると思われるんじゃないか?」を乗り越えるのに3年かかったのである。
まあ、だからといって症状が軽くなるわけではないのだけど、それでも孤独感みたいなものが少しだけは緩和できているのだろうか。いや、それはわかんないな。
でも、鬱アピールというか、キツい時にキツいと、まあ主にネット(SNS)でだけど、言うことのハードルがだいぶ下がったと思う。仕事とかもキツいときは休めるようになったし、予定もキャンセルができるようになった。あとは、頼まれ仕事を華麗に断る技術と精神力も欲しいな。

岸本佐知子さんのエッセイを読む。面白いなぁ。この日記もあんなにおもしろくなってくれればいいのに、などと思うけど、まあ無理でしょうね。青臭いことばっかり書くのがわたしの癖ですので。あの力が抜けながらも粘着質な文体って、どうやったらできるのだろうか。わしにゃわからんぞ。それからあの妄想力。羨ましい。

昼間は薬が効いているせいか、日記が全然ノってこない。繋がらない。書きたいことあってもどうしても断片的になってしまう。多分原稿を書くのには薬を服用する前にがいいのだろう。来月から勤務体系が変わるが、その際に薬についても考えてやらねば。

アトリエをチマチマと片付けているのだが、なんだかんだいい感じになってきておる。あまりに整いすぎると飽きてくるので、ルースな感じで、スラックを残しながら仕上げる。そうやって空間全体を作っていく。それが楽しい。
今日保育園のミーティングで、次年度の話をしたのだが、理想の保育を実践していくためには、園内の空間利用の仕方を考えないといけない。建物の構造、設計がボトルネックとなっているのです。
ただ、大掛かりな工事もあまり気が進まない。ハード面ではなくソフト面のアレンジでなんらかのブレイクスルーは起きないだろうか。
そういうのは大体において手を動かしている時に自動的に生成されるものだから、いつでも受け取れるように準備して待つことしかできない。
伊坂幸太郎の『フィッシュ・ストーリー』にも、「大事なのは準備だ」的なことが書いてあったと思う。あるいは、映画でのセリフだったか。
たとえば最近生まれたアイデアは、アトリエの談話ルーム(と便宜上呼んでいる)のテーブルのことで、ソファなどが配置されたその真ん中に置かれたテーブルが、重くて大きくて何かと存在感が強かったのである。でもなぁ、どうしようもないしなぁ、テーブルはないといけないし、他のものに変えても、実質あまり邪魔さ加減は変わんないしな。。。
なんて思ってたら、閃いた! 何かというと、「テーブルって手前しか使わないよな」ということ。もちろん奥も使うけど、頻度でいえば圧倒的に手前だ。だから、手前だけで構成されたテーブルを置けばいいんじゃないか、ということで、いま談話ルームのテーブルはL字型をしている。奥の部分は、必要な時だけ使えるように、部屋の隅に、邪魔にならないところに置いてある。
DIYをしていると、日常の生活動作や行為のクリシェみたいなものが見えてくるから面白い。保育園の工事も楽しみである。

1月29日(金)

10時服薬。
あさから『沖縄から貧困がなくならない本当の理由』を読む。
いろいろと納得したり、なるほどと思ったりすることは多いのだが、「自尊心の低さ」を「本当の理由」とか「根本原因」として断定して論を進めているこの感じ、一人ひとりが変わることで社会全体が変わる、みたいなこの感じ。「怒るな、自分のことをしろ」とツイートした糸井重里のあの感じと似てる。
この本の文脈で見たとき、自尊心低いんだからあげろ、というのが、競争力低いんだから上げろ、というのと何が違うのだろうか。
他者の関心に関心を示すこと、というのを(ほぼ唯一の)解決策として挙げていて、その「他者の関心への関心」に溢れた社会が構成されることで結果的に経済も上昇するということなのだが、言いたいことはわかるしそうなれば理想的だと思う。
でも福祉現場で働いていて感じる大きな問題は、「他者の関心に関心を示すこと」をカットすることで制度が回っており、経済合理性からの無言の圧力によってそれが機能しなくなっている現状である。
これは弱い個人が頑張っても潰される構造であり、だからこそ自尊心が低下していくのではないのか? それは制度設計や構造的欠陥と見なすべき問題ではないのか? であれば、自尊心という「根本原因」に帰属させることで、結局個人の問題にすり替わり、著者の言う「対症療法」へのリソースは減らされ、余計に個人の持てる力は弱まってしまうのではないのだろうか。

キーボードでのライブ変換機能について、どうするべきか悩んでいる。勝手に変換されるからめんどくさいではあるんだけど、オフにするとディスプレイ上に検索候補がいくつも出てきてとても気持ちが悪いし、やりづらい。
いまはライブ変換なしで書いているが、うむ、やはりちょっと面倒だぞ。とくに文章が長くなると工数がいちいち増えている気がして、というか実際に確実に増えているな。というか、候補を選ぶときに、どれが選択されているかを示すアレが薄くて見えづらい、これはダメだ、面倒だ。やめよう。
一文が短くなって、タイピングの手がいちいち止まって、文章のリズムが悪くなる気がする。誤変換は減るだろうけど、そんなもの後で直せばいい。
まずはスピード、まずはリズム。

あ、これはiPadの話ね。

これは誰に向けての語りかけなのか。この書かれたことがiPadのことであるかどうかなんて誰にとって必要な補足になるのか。
多分、書いているわたし自身だ。こうやって補足も込みで細かく書くことで、誰かに説明している感が出てくる、インタビューなどを受けている感覚とも近いのかもしれない。

ちょっと恥ずかしいのだが、わたしはたまに、車の中で一人、架空のインタビューを受けているテイで一人語っている時がある。
自意識過剰の権化のような行為だが、でもこれにも効能があって、考えがまとまったりアイデアが思いついたりするのだ。つまり、運転中という比較的ボーッとした状態で頭の中のグジュグジュを言語化する作業ができるのだ。
だから自意識過剰一人語りインタビューもどきを時々やって、思考の整理と創発が起きて、これが仕事や創作に影響を及ぼす。
これがもし本物のインタビュアーがいて、わたしの想定外のところからの質問がなされた場合は、また新たな思考やアイデアが生まれるのだろう。
だからインタビューというのを、あらかじめ考えていることを提示する場として捉えるだけでは不十分で、そこは創出の場でもあるのだ。
今後もわたし自身がインタビュアーになることもあるだろう。その時はこれを意識することで、いいインタビューになるのではないだろうか。ってことを書きながら考えた。
いまラジオドラマの登場人物にインタビューをしている。もちろん実在しないキャラクターたちなので、わたしの頭の中だけにしか存在しないのだが、それを言語化することで、なんか実際に居る人みたいな、なんか前々から知ってる人みたいな気になってくるから不思議である。

いま思いついたのだが、いくのさんとの研究会は、インタビューにしたらいいんじゃないか。いろんな作家にインタビューしてZINEを作成する。作家の人も嬉しいだろうし、そこが創発や気づきの場となって、いろんな実践知が蓄積されやすいのではないか。

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