第4回[1月16日〜1月21日]

仕事は手を抜いても、DIYと日記だけはチマチマ続けているわたしを、だれかもっと褒めてください。リクガメが飼いたい。それか、カメレオンかトカゲかイグアナが飼いたい。可愛すぎる。

1月16日(土)

服薬なし。

今日は薬を飲んでいない。16時ごろに飲んでみようかと思ったのだけど、その時間アトリエにてDIYに熱中していたのと、車に薬を忘れてしまっていたので、後で飲もうと思っていたらもう結構な時間になっていて、もうべつにいいんじゃねえだろうか今日は、だってDIYしてるから調子いいし、いまのところ何の問題もないし、だから今日は飲みません!と決めたので飲みませんでした。医療への反抗である。レジスタントである。アジテーションである。アジテーションではない。別に誰を煽ってもいない。

昨日の打合せで結構盛り上がったので、来月から研究会をやっていくことになった。テーマみたいなのは決まっていないし、かっちりとしたものを決めるつもりもないけれど、アートとかデザインとかクリエイティブとか、そういった「行為」自体の考察になるだろうと思う。
作品ではなく。つくるってどゆこと?なんでつくるの?つくってどうなるの?どうやったらつくれるの?なんていうような感じでしょうかね。
正直いくのさんとはいつも会った時はこういう話ばっかりしてるんだけど、ふたりで喋ってることをちゃんと記録に残そう、という研究会だ。あと数名くらい参加者いないかな。興味ある人連絡くれ。ってここに書いたところでなんの告知の効果もないけど。

いくのさんは最近イラストを描くとき、その工程を動画(タイムラプス)で撮影するのだという。描いている途中は「潜る」ような感覚のため、実際に自分がどのように描いているのかをあまり意識していないらしい。その動画を見ることで、その自分の姿を客観的に見ることができ、自分の創作について実感を持てるようになったのだそうだ。
実際にその動画を見せてもらったのだがとても面白くて、なんならこれもセットで見せたら当のイラストに愛着が湧いてより可愛らしく感じる。作る側にも見る側にもプラスの効果だなんてめっちゃええやん!ていうこんなことを情報として蓄積していきましょう、これめっちゃ具体的だし実践的ですよ、フリーでひとりで作業してる人たちめっちゃ救われますよ、情報溜まったらZINEにしましょ。みたいなことは話した。それを実現できればいいけど。
創作している自らの姿を動画で見ることの効果って、思っているよりも効果でかいのかもしれない。『芸術の中動態』という本で、作品を作りながらその作者になりつつある、というようなことが述べられているのだが、たとえばドローイングのプロセスを見るというのは、自身がその絵の作者になっていくプロセスを見ることでもある。
つくるという行為のケア的側面の多くは、作業中つまりプロセスのなかにある。もちろんできあがったときの達成感や自信なども大きいけど、手を動かしながら心地良い方向を探っていくあの時間自体に癒しの効果があるのだと思う。わたしにとってはこの日記もそうだし、保育園で子どもたちと劇を作るのは、そのプロセスを経験する機会を作っているということか。

最近保育園のこくごレッスンで、年中の子たちにもペアでスキットを作らせたりしているのだが、最近おもしろいことに気づいた。ひとりが延々喋ったり冗長になりすぎたりといった偏りを避けようと、「往復5回(一人5回)のセリフで劇をつくる」という条件で取り組んでもらったのだが、おしゃべりが上手だったりままごとで主導権を握ったりするような子が、その条件での劇作りだと途端にフリーズしてしまうのである。逆に、普段は気を遣いがちで周囲に合わせようとするタイプの子の方が、この条件下での創作にうまく取り組めている。たぶんいろいろ解釈や分析はできそうなのだが、今後もう少し実験してみよう。

1月17日(日)

14時30分服薬。

今日は日記を休みにしようかと思ったが、手持ち無沙汰で気持ち悪いので書くことにする。

ちょっと前に結婚した。あまり周囲には話していないが、聞いた人はみんな一様に驚いていた。もともと予定はなかったし、突然の決定だったので、驚くのも無理はない。

結婚とはなんなのだろうか。結婚とは、「社会契約」であり「セーフティネット」である、そういうふうに考えることがある。
一人より二人の方が、家賃なり食費なり一人分の額は下がるし、たとえば健康を害した場合、たとえば失業した場合、ひとりだとすぐに危機につながるが、ふたりだと家族成員の生活維持という側面でリスクヘッジになる。まあ、ざっくりいえば双方で助け合える、というのが結婚ということなのだろう。
でもそれなら婚姻関係はどうなるのか。必要か? 必要だろう。親族がどうこうとか苗字がどうこうとか、そういうのの大事さもわかるが、ここでは考えない。婚姻届を出す、つまり婚姻関係を公にする、わざわざそういったことをやるのはなぜか。結婚という「社会契約」を結ぶのは何故か。
もちろん、公的制度などで婚姻関係の有無によって対象になるかならないかが決まったりするからそういうのもあるんだけど、でもどっちかというもっと明文化されていない社会契約の側面のほうで、たとえば妻が突然体調を崩し、その連絡を職場で受ける。入院が必要かもしれない、すぐに駆けつける必要がありそうだ。さて、そこで夫は急いで上司の元へ向かい早退の旨を伝える。「なにかあったのか?」「妻が」「そうか、早く行ってあげなさい」「はい」「厳しそうなら明日も休んでもいいからな」「ありがとうございます。では」と、よほどのブラック企業でもなければこうなるんじゃないかと。
でももし「妻が」のところが「彼女が」だと、ちょっと雲行きが怪しくなる。却下されることはないだろうが、すこしだけ不穏な空気が流れ込んでくるような気がする。公的な家族成員であることの宣言は、私的な経済圏、私的な人間関係の中でも多分に効力を発揮するものなのだろう。

ただ、その「社会契約」や「セーフティネット」を維持するにはコストが発生する。公的な社会制度がわたしたちの税金によって運営されているように、結婚生活も成員同士がコスト(お金に限らない)を互いに負担しあって運営されている。たとえば家事やコミュニケーション、「我慢」などもひとつのコストだろう。

ここまでだとなんかとてもドライな感じがするが、実はそうではないし、そうではないことをもっと書きたいが、今日はもう時間切れなのでここまで。ドライなまんま、薄情なまんま、次にこのテーマで書く時まで保留しておく。

できれば今度は、父親になること、親としての「責任」、などについて書きたい。「責任」は英語で、responsivilityという。responseつまり「応答」だ。しっかり「応答する」ことが責任である。書き出してしまいそうだから終わり。

(「サラダからスープへの変更。トマトの状態。」という書きかけの項目もあったが、それはもう公開日の時点ではなんのことやら覚えていないので、記録としてその状態があったことだけ記しておく)

1月18日(月)

9時服薬。日記は本日休み。

1月19日(火)

服薬なし。

鬱期の「そこそこダイエット」について。ダニエル・カーネマンのいうシステム1を働かせるために、環境に変化を加える。生活をしつつ、その都度生活をあらたにつくりなおす。
「平均回帰」とダイエット。体重と食習慣の「平均」に回帰するが故に、リバウンドは発生する。だから考え方はシンプルで「平均値」が変化すること。体重が時系列で見た時どのような経緯を辿るのか。食べ方の平均は? 満腹度の平均は? 増え続ける人は、急に減りやすい人ではあるけど、その際の食事や運動については「平均値」からの外れが大きいと考えられる。
わたしたちはその平均値の維持(体重の維持とは限らない)に貢献する習慣を過ごしているといえる。だからたとえば、満腹度の平均値を変更しなければならない。ご飯大盛で満足を得られる人が、並盛でもおなじような状態になることができるか、という問題だ。でもこれはわたし自身の経験だが、いっぱい食べないと満足しない、という感覚は必ずしも正確ではない。というか、いま現在のわたしでいえば、少量で全然いいのです。大盛り、おかわり、をどうしてもやってしまうのは、ひとつは「消費者としてお得だから(大盛り無料/おかわり無料)」という経済活動としての選択と、高校球児時代の感覚をいまだに引きずっているからである。代謝という平均値は変化しているのに、満腹感については変わらない、これはまあ太るわな。

今日は昼前には退勤していろいろとやる予定だったが、直前で職員から休みの連絡。結局18時まで仕事をすることになった。でも改めて自分の仕事ってなんだろうと思う。いろいろと書いてみながら考察してみようと思っていたが、眠すぎて頭が働かない。いま21時34分なのだが、1時間前くらいから異様に眠くなっている。仕事の話だと気分が盛り上がらない、目が覚めない。本の話をする。

乗代雄介『旅する練習』を買った。まだ読んでないけど。きっと多分いい小説だと思う。前に読んだ『最高の任務』が最高に良かったから、今度も期待大です。
わたしはどこか書くことについて考えた小説や、演じることについて考えた演劇などが好きらしい。書きながら、「書くってこういうことなのではないか?」というふうになっていく感じを、読みながら追体験しているというような感じかもしれない。
スピノザの「真理」についての言説がそんな感じのことを言っていたような気がするけど、あまりにも自信がなさすぎて、だから書かないけど、それなら最初からそこは書くなよ、消せ、となるかと思いきや「スピノザがそんな風なこと言ってたよなー」って思ったことは本当だから、そのことくらいは書いたっていいじゃないかと思う。

整った言葉だけが言葉と思うなよ。

わたしは誰に向かって叫んだのだろうか。そもそもこの言葉は叫びだったのか。叫んだことにも呟いたことにも、書き手の裁量でできてしまう世界、それがテキストの世界。
でもテキスト論的には、書かれてしまえば文字のモノのなので、てことは読者のモノなので、わたしのこの日記は書きながらこれを読んでいるわたしのモノなのである。なんて当たり前のことだとあなたは思うだろうか。この場合のあなたは誰だろうか。わたしだ。わたしか? 本当にわたしか? お前だったのか。とモンスターエンジンのネタを思い出してしまった。でも「お前だったのか」は同時にごんぎつねでもある。だから何という話ではあるが。

今日この本(『旅する練習』)を買ったとき、ジュンク堂のレジ担当の人の一挙手一投足が変だった。クーポンの利用や電子決済や領収証の発行を、お願いするたびにいちいち「シェー!」みたいなポーズで驚き、何かを指し示そうとするそのジェスチャーも一個一個が大袈裟でオペレッタで張り切りすぎた小学2年生みたいな、でもルックスはとても綺麗な書店員さんで、そのギャップに萌え、なんてことはまるでなく、ただただ異形なその振る舞いに呆気に取られていたのであった。
日常でもああいう感じだったとしたらすごいな、見てみたいな、ていうかよくバイトの面接受かったな。などと余計なお世話をぼんやりぼんにゃり考えたのだった。
しかしああいう「クセがすごい」ことを指摘されるのは、最近では「オイシイ」と捉えられることもあろうが、それはあくまでも他者にとっての「オイシイ」であって、本人にとってはどうなのだろうか、と自省を込めて考えたい。
わたしはついついネタにしちゃうのである。実はそれが傷ついていた、と直接言われたときには本当に自分を呪ったし、優しいことを言おう言おうとしてるくせに結局それって自分の評価を上げたいだけだったんじゃないの?ってな自己批判もまあ生成しますよね。だからちゃんと考えないといけない切実な問題だよね。
昔、多分小学生か幼稚園生くらいのころ、あるクセがあって、それは履いているパンツとズボンをお尻に食い込ませるということだった。
お尻に布が食い込んでいないと不安なのだ。外から見るとズボンの尻部がキュッと締められて割れ目に収められてる姿は滑稽だろうし、それについてよく親からも注意された。うまく拭き取られていなかったものが乾燥したのか、あるいは拭きすぎてかぶれていたのかはわからないが、なんというか痛痒い感覚がお尻にあって、それは布を押し付けることでいくらか緩和されるような気になったのである。ちょっと癒着させるみたいな、空気に触れさせずに。
だからか、今ではウォシュレットがないと困る。最近まで新しい部屋にはウォシュレットがなかったのだが、ようやくこの前の日曜日に設置した。設置後、便意はないが早速使ってみる。うむ。使いはじめだから徐々に暖かくなり始める洗浄水の温度に妙な初々しさを感じながら、そして水勢をアップさせ彼らのもつパワーも再確認し、あらためてウォシュレットへの畏敬の念を抱いた。ありがとう。

1月20日(水)

9時服薬。

今日はなかなか意欲が出ず、朝から調子が悪かった。昨日急遽フルタイムになり、今日こそは自由に動きたいと思っていたが、やはりフルタイムで出ることになった。仕方がないけども。というわけで準備を、と思ったら身体が動きません。だる。
気持ちも沈んでいる状態だったから、もう誰もわたしの身体をコントロールできません。歯ブラシすら重い、腕を上げるのがもうしんどい、これは確実になまどろ様の仕業です。
なまどろ様とは何かというと、淵の王からの要請を受けてわたしの身体内を管轄している不定愁訴のエリアマネージャー兼GPSです。
淵の王とは、なんでも食っちゃうヤバいやつのことです。舞城王太郎の小説に出てくる(正確にはそれは書名であり、そういう名の人物が出てくるわけではないが)野郎です。
わたしはわたしの鬱を淵の王の仕業ということにしています。鬱で落ち込んだりひどいときには希死念慮に襲われている時は、淵の王が少しずつわたしを食べているのです。そいつがわたしの身体になまどろ様を派遣して、わたしは中国からの使節団を接待している琉球王朝の官吏のような感じで恭しく丁重になまどろ様に対峙しているのです。
んで、なまどろ様ってのは、鉛のように重く粘質の液体みたいなドロッとしたものが顔面の奥にずっと鎮座しているような感覚が去年の5〜6月くらいからずっとあって、それをなまどろ様と名付けたのでした。ちょうど「玉どろ」とも名前似てるし。「様」は、恭しく丁重にお付き合いしていこうという、やっつけたりとか乗り越えたりとかはせずに、というか無理だろうし、うまくなんとかコミュニケーションを図りながら利害を調整していく相手として捉えようという思いもあって付けました。
なまどろ様は、いつも正午くらいに起き、13時〜16時くらいに活発に活動します。特に腕が好きで、その時間帯はわたしの腕は異様に重くなり、だるくなり、横になってしまったらしばらく起き上がれなくなります、そのせいで夏場はほとんど午後は仕事できませんでした、仕事に限らず何もできませんでした。
しかし最近では恭しく丁重に接することでなんとか大人しくなまどろ様もなりはじめていて、それでもやはり出てきたりするのだけど、DIYとかの活動をわたしがしていたらなまどろ様は退屈し引っ込んでくれるのです。終わったら暴れるけど。
ただ、先月から薬を飲みはじめてからは、薬がなまどろ様をブーストして調子に乗らせて、おかげで昼間が眠すぎて仕方がない。まあこれは普段夜に2〜3時間しか眠れないという不眠の影響も大きいのだろうと思いますが、まあそんな感じで、「淵の王=心」と「なまどろ様=身体」と「わたし」という関係だったものに、「薬」という新たな存在が介入してきて、またその関係性も変わりはじめているのが今です。
家族療法などのシステム論的アプローチでは固定された関係性を解すべくセラピストが介入したりネットワーク間の誰かに集中的にアプローチしたりなどいろんなことをしますが、わたしはいま薬を駆使してなまどろ様や淵の王との関係を見直す時期なのかもしれませんね。もちろん、薬との関係も。薬ってのは今までわたしのネットワークにはいなかった存在で、医療の介入によりやってきたやつなので、時期がきたら去っていくものだと捉えるべきでしょう。

1月21日(木)

8時30分服薬。

昨日の夜、乗代雄介『旅する練習』を読み終えた。もう、なんというか、読後感が、、、今も思い出したら胸が詰まるというか、寂しさのようなものがどんより巣食っている。どうかそれだけは、、、という展開にラストでなって、悲しさと悔しさと居た堪れなさにもう「んーーーーー!!!!!」ってなった。
でもこの人の文体というか作風、わたしはとても好きだ。読んでいて心地がいい。
文体や設定にトリッキーなところがあるわけじゃないけど、驚くような仕掛けだったり、軽やかな言葉でグッと深い思考に潜ったり、エンターテイメントとしてもとても質が高いと思う。『旅する練習』では『おジャ魔女どれみ』のテーマソングがやたらに深く考察され、Youtubeで聴き返したら不覚にも泣きそうになった(てか泣いた)。
あと、この本は『ウォークスーー歩くことの精神史』にも大きく影響を受けてるんじゃないか、って思った。主人公の小説家は徒歩旅行の途中でやたらに風景をスケッチしながら思索に耽っている。ともに旅する姪も歩きながら(歩くことで)日常の中にある様々な輝きに気づき始める。『ウォークス』ではまさにそのようなことが記述されている。それに、乗代さんのブログにも、この本についての感想記事があったし。
だからわたしは、今無性に散歩がしたい。フラフラ歩きながら、目に映るものにアフォードされ頭の中で立ち上がるであろう様々なアイデアに早く、たくさん出会いたい。日課に散歩を追加するには、少しずつ固まりはじめている生活リズムをまた解す必要があるだろう。でも、それを考えることもまた楽しみのひとつではある。

『ウォークス』のなかでわたしが特に好きな一節は次だ。
「歩行のリズムは思考のリズムのようなものを産む。風景を通過するにつれ連なってゆく思惟の移ろいを歩行は反響させ、その移ろいを促してゆく。内面と外界の旅路の間に一つの奇妙な共鳴が生まれる。そんなとき、精神もまた風景に似ているということ、歩くのはそれを渡ってゆく方途のひとつだということをわたしたちは知らされる。新しい考えもずっとそこにあった風景の一部で、考えることは何かをつくることではなく、むしろ空間を旅することなのだと。」(『ウォークス』14頁)

わたしにとって本当に大事なものは、「到着」よりも「移動」そのもにある。移動の中に、その常に変化していく空間全体の中に、自分自身を置く。世界の中に自分が存在し、歩くことでその景色も、世界全体もまた変化している。その反復。その循環。常に同様でありながら常に変化する。常に変化しながら同じである。オートポイエーシス理論とも接続したら面白いかもしれない。今度ちょっと考えてみよう、歩きながら。

100分de名著、マルクス『資本論』の第2回と3回を連続で見る。やはり資本主義の無理さを再確認。ソ連や中国だけが社会主義のあり方ではないし、他の可能性も考えられたらいいのに、などと思ったり。
第3回のなかで「構想」と「実行」の分離の話をしていた。構想と実行の乖離が激しすぎて、労働者は疎外され、しまいにはブルシットジョブが生み出され、さらに不幸な労働者が増える。資本家も資本家で、将来的な資本を増殖するためだけに自らの資本を使う。そのループから逸れることができない。誰が幸せになるんだ、この資本主義システムは。
アメリカでは、若者のなかにも社会主義的な制度設計のあり方を支持する向きもあるらしい。日本の若い人(わたしも含め)はどのように考えているのだろうか。

話を戻す。構想と実行。その乖離によって「退屈」も生まれるしブルシットジョブも将来の不透明さも自分自身の無力感も生まれる。
例えばDIYをしているのがどうして癒されるのか。それは自らがもつ力を身体で実感するからである。言い換えれば構想と実行の乖離を食い止める作業なのである。
それとはちょっと違うけど、「作る」と「使う」が引き剥がされ、「作る」と「食べる」が引き剥がされる。土井善晴先生曰く、本来は食べることに「作る」も含まれていたのだと。でも今は美食家が持て囃され、「食べる」に重点が置かれるようになった。
簡単でいい、おいしくなくてもいい、でも作ることって大事なんだと、それが土井先生の思想だ。それは構想と実行とをつなぎとめる作業にも近いのかもしれない。
わたしが癒されているときの感覚を言葉にすると「小さな全体」を自分で作っているときだ。小さいけど全体、構想と実行が分かつその前に、その全体を、小さな全体を自分の手で。
料理や家具だけじゃなく、きっと生活自体がそうなのだ。小さな全体なのだ。もちろんコントロールできない領域は多いし、自分自身の心も体もそうだが、でもそれでも、それだからこそ、小さな全体をポツポツと、至る所に作り出していく。そのことが、きっとわたし自身を癒してくれることになる。
だからそれを続けよう、そのことだけを考えよう。あまり気負わなくていい、大きなことを考えなくて、長いスパンや大きなスケールじゃなくたっていい、小さく、でも全体。それを意識しよう。

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