第3回[1月11日〜1月15日]

もう3回目の更新となる。なんだかんだ毎日日記を書いているから、更新のペースもはやい。でもちょっと、早すぎるかもしれない。たまには休みも必要だ。旅行に行きたい。旅行に行って、部屋から出ない3日間を過ごしたい。(写真はウチの愛犬)

1月11日(月)

8時35分服薬。
3連休の最終日。明日からまた仕事や、、、。まあ、頑張ろう。ほどほどに。
今朝はサンドイッチを作り、昼は味噌汁と豚肉とキャベツの塩ダレ炒め。お米の代わりにサラダで。夜はアトリエでレトルトのハヤシライス。WEB構築に手間取り、ストックを食す。

やはり薬の副作用かもしれない、眠い。昼食後、ずっと眠い。昨日も今日も。これは慣れるものなのか、それともずっとこのままなのか。どちらにしても観察を継続するしかない。
16時ごろまでゴロゴロしたあとで、ウェブサイトのデザインをはじめる。この日記を公開しようと思っているので、そのためのサイト。別にテキストだけだからシンプルなものでいいんだけど、既存のものをそのまま使うのはあまり好きじゃない。ちょっとだけ、自分に寄せる。心地いい状態を作る。
結局4時間以上作業をしていた。進捗はあまりよろしくないけど。なぜかcssを編集してもブラウザに反映されないことが続き、いろいろ調べても原因が掴めず、諦めて1から試行錯誤で作ることにした。長くなりそう。
元気なら朝までぶっ続けでやりたいところだけど、今日はちょっとだけ世界が回っている感じ。これも副作用か? 体の怠さやめまいは薬を飲む前から症状としてあったから、今感じているこれらが薬の影響なのかわからない。でも多分、薬がブーストして症状が浮上しているのだと思う。

てかさあ、この日記の公開、今のところの予定としては1週間分を1つにまとめて1ページで投稿しようと思ってるんだが、長すぎだな。
俺はいいけどYAZAWAは何ていうか。
『ちくちくうにうに』という漫画が好きで、この話題が唐突に出たのはタイプミスで「うに」という言葉が出てきたからなんだけど、今日のわたしはこれを広げて他の話に接続することが難しそうだ。頭がボーとして世界が緩やかに回り、ヤンキーが無理やり授業受けさせられて最後の抵抗とばかりに逆にキツイだろってくらい乱れた姿勢で座るくらいの行儀の悪さでコメダのソファの背もたれに身体の背面を貼り付けているので、真面目に文章を書くなんてできるわけがないのである。

杉田俊介『人志とたけしーー芸能にとって笑いとはなにか』を冒頭だけ読む。読むうちにすぐに「バカリズム」について書きたくなった。別にこの本とは関係ないのだけど。
バカリズムのコントは、どうしてああ面白いのか。わたしが一番好きなのは『野球官能小説』というネタだ。官能小説を朗読する男。マイクに向かって、色気のある低音ボイスで囁くように語っていく。セクシャルな雰囲気をさらに醸造するようなBGMが背後でかかっている。
のだが、エロを表すワードだけが、野球用語に全て置き換えられるのだ。(タカヒロはミサコを抱き寄せ、ミサコの潤んだ“キャッチャーミット“に自分の“ファーストミット“を優しく押し当てた)。
しかしこのネタの白眉はラストだ。終盤はほとんど野球用語の羅列だ。意味も何もあったものではない。でも、キャラクターたちが何を行なっているのかは生々しいほどにわかる(タカヒロはそんなミサコの柔らかな“イ・スンヨプ“に、“ダルビッシュ“を激しく“ゴメス“した。ミサコは声を“松坂“せ、「“ヒデキ・マツゥイ“」声をあげ、“デーブ大久保“スタシーに達した)。
この世のすべての言葉は野球用語なのではないか、という錯覚に陥るほどに(陥らないけど)、見事なオチだ。
エロと野球、男根社会のおかしさをまざまざと提示してみせたのが、この野球官能小説なのではないか。エロも野球も、男の夢とロマンで理想化された、浅はかな幻想だ(などと適当なことを言ってみる)。それっぽいBGMとそれっぽい言い方で、野球とエロを無理矢理結びつけた手つきがすばらしいのです。

このネタの方法論は例えば、「贈るほどでもない言葉」でも用いられている。卒業する生徒たちに向けて感動的な最後のメッセージを贈っているような佇まいで、本当にどうでもいいことばかりを言う。
その「贈るほどでもない」を無理やり「贈るに値する」に至らせる装置が、BGMと言い方だ。それらが担保となって、「感動っぽさ」が醸し出される。
話される内容があまりにもどうでもいいから笑ってしまうのだが、でもこれは現実をシニカルに切り取ったネタでもある。つまり、「贈るに値する」と「贈るほどでもない」の間にあるのは、BGMと言い方の違いだけなのではないか。つまり、演出の問題にシュリンクするのである。2分の1成人式などもその最たる例だろう。キラキラした演出を施すことで、感動っぽさ、感謝しているっぽさ、贈る言葉っぽさ、それらが成立する。

1月12日(火)

8時20分服薬。
昨日のつづき|バカリズム論
しかしその演出については、多くの人は分かっている事柄でもあると思う。それっぽい音楽流してそれっぽい言葉言えばいいと思ってるんでしょ?などと結婚披露宴などでの手紙の朗読の類を聴きながら思っている人はわたしだけではないはずだ。
しかしここで重要なことは2つある。ひとつは、そのそれっぽさを自覚していたとしても、それっぽいの力は強大だということだ。頭ではわかっていても、心で感動する。フンって斜に構えてもホロって来てしまう。悔しいけどそういうことも多い。これに関しては音楽理論や心理学理論などでの吟味・分析が必要であろうからここでは立ち入らない。
もう一つは、それっぽい力の強大さが誘発する「演出(を施すこと)の全能感」について。それっぽいとそれっぽくないの、あるいは「贈るに値する」と「贈るほどでもない」の間に引かれる境界線は明確に定められているものではなく、BGMと言い方により恣意的かつ暴力的に決定されるものである。
わたし達はそのような演出効果に人生の中で数えきれないほど接してきた。その経験によって獲得してきたのは、BGMと言い方のパターンを認識することでホロッとくるやグッとくるというリアクションを生成するという自動回路である。パターン認知とそれへの反応を、学習し、内面化しているのである。

本来ホロッとくるやグッとくるは、事後的にしか発生しないものである。それを事前に、意図的に計画しようという場合、演出(BGMと言い方)の枠内に収めることでそれを引き出すしかない。
人間のパターン認知の能力を信頼しているからこそ、その演出法は採用される。でもその方法は、事前の安全策でしかない。計画的に進行するために、あるいは望んだ反応を引き出すために確率の高い選択肢、というものである。
でもそのパターン認知と反応を幾度も経験し学習してきたわたしたちは、その事前の安全策を「万能な完全策」だと考えるようになってしまう。感動ありきで進行されるイベントの類には事前の安全策を仕込むのは必要なことだが、それへの信用が信仰へと変化し、BGMと言い方が全能なものだと、もっと言えば演出と感動が同一のものだと作り手は誤解(あえて誤解と言い切ってしまう)してしまっている。
それらをシニカルかつコミカルに描き出したのが、バカリズムの「贈るほどでもない言葉」というコントなのである。

世の中に敷衍する演出の全能感に抵抗を示し続けるのが、みうらじゅんという男だ。(何にでもみうらじゅんの思想が繋がってくる)。
彼のコレクションの一つに「グッとクリフ」というカテゴリーがある。全国の様々な崖に出向き、写真を撮り、そのフォルムにいろいろな蘊蓄(ほとんどは思いつき)を施し、「グッとくる」と唱える。それらを収集したのが「グッとクリフ」である。
糸井重里はみうらのその活動について「みうらが帰ったら、崖はただの崖だよ。」と評した。これまでの感動=演出という思考と糸井の言葉を繋げると、みうらがいること自体が演出であり感動である、ということになる。
ただそのコレクションを見ても、パッと見「グッ」を誘発する部分がわからず困惑する。でもそれをみうらの懇切丁寧なこじつけで解説されるとき、はじめて「グッ」がやってくる。「あ、そういうことか」と理解したとき事後的に感動が生成される。
みうらは彼のコレクションを見る人に感動を与えるために、もちろん事前にいろいろ仕込んでいる。大胆なこじつけ解説もその一つだが、なによりも彼がどんな歪な崖でも、というより歪な崖ほど愛そうと彼自身が決めていることがその「仕込み」の最たるものなのではないか。

みうらじゅんは、歪なもの、取るに足らないもの、人が見ていないもの、それらを愛そうと決めているように見える。
「そこがいいんじゃない」というテーゼは、そのスローガンだ。
BGMと言い方で感動を作り出すその強権的な制度から距離を置き、一人崖っぷちに立ち「グッとくる」と叫び続ける。そのこと自体に信者であるわたしなどは感動して泣きそうになってしまったりもするのだが、常に、別の形の「グッとくる」もあるはずだ!と周縁を探し回る姿勢が、「全能な演出」で一色に染められがちな「感動」に別の可能性を開く回路になっているのである。

1月13日(水)

7時35分服薬。
今日はずっと仕事。疲れた。なんといっても新年になって原点に行けていないのと、明日も明後日も行けそうにないことが、わたしの心をさらにどんよりさせる。我がデイケア原点。高齢の常連客のみなさまの間で肩身狭くではありますがチョコンと座ってコーヒーを飲みながら本を読んだりスマホいじったりぼんやりしたり、そんな時間だけがわたしがわたしである時間なのです。ウィニコットのいう「本当の自己」があらわれてくるのが原点でのあの時間なのです。
となると、わたしは2021年まだ「本当の自己」になりえていない。仕事に、やるべきことに追われ「偽りの自己」のまま2週間近く過ごしている。
この日記を書いているコメダでの夜の時間は比較的リラックスしているのだが、それでも日記を書くという決まり事を課しているので「本当の自己」ではない。もっとゆるんだ、自他の境界があいまいになりはじめたときに「本当の自己」はあらわれてくるのである。
もっとゆるく。ゆるゆる。ていうかウンコが出ない。まじで頑固だ俺の便秘は。「まじで頑固だ俺の便秘は」を下の句にして、短歌を一つ作ってみたいと思ったが、その前に「便秘」という単語を「下の句」と呼ぶことで引き起こされるより短歌を汚してしまうような下ネタ感、下品感。
下品感ってあまり言わない言葉だけど、下品館という館はあるのです。しかも沖縄県内! 沖縄市の美里と宮里の境目あたり、新しく高層のアパートが乱立している住宅街の裏手に、トタン屋根のプレハブ小屋みたいな感じで、白の外装の至る所に茶色い汚れが目立つ見るからに下品そうな建物。
引き戸を開けて中に入ると、いまや希少となったエロVHSや、木でできた男根。うんこの形に固めたスパゲティ麺。額に「変態」と記された髭の紳士。パイパニック、カーリーガカンジル。なぜかもずく酢。もずくずくずくと歌うロンブー淳の顔が思い出される。彼もまた下品館の常連客なのだった。

はあ、文字数を埋めるためだけにまったく意味のない文章、しかもまったく嘘八百な内容を書いてしまった。
しかしこの意味のない生産性のない行為への没頭で、すこしは「本当の自己」が顔を覗かせたような気もする。

胃袋を乳製品で満たせどもまじで頑固だ俺の便秘は。

明日はどうか出てくださいな、うんこ。うんこも本当の自己とおなじでぼんやりしたときに出てくるもんなのだろうか。とにかく、本当のウンコキボンヌ。

1月14日(木)

6時服薬。
昨日は仕事のことで落ち込んで、帰宅してからはすこし鬱症状が出た。でも、めまいのおかげで眠るしかなく、普段よりはやく床に着いた(25時ごろ)。
そのせいか5時には目が覚め、洗濯機を回し乾燥機を回し、朝食作って食べて少し部屋片付けて、とあくせく動いた結果の体がだるい午前9時40分。
起床時間が早まった分なまどろ様の来襲がはやまったのだとしても早すぎない? まだ10時にもなってないのに、右手はダルさで動きにくい。瞼も重いし頭もボーッとする。いまからこくごのレッスンの時間なのに、、、とりあえず準備をはじめレッスンへ。

昼後、税理士事務所へ向かう車中が眠すぎてヤバかった。直前で一旦原点によってコーヒーを飲んだにもかかわらず、である。どんだけつよいんだ薬の副作用。薬が眠気を加速させる。それなのに夜は不眠が続いているから不思議だ。
朝に飲んだら正午あたりから怠さと眠気が来るから、昼〜夕方あたりに飲めば夜に眠くなるんじゃなかろうか。飲む時間を変えようかな。でも勝手に変えてもいいものか?なんて優等に医療化されたわたしは考える。
でも薬がアウトソーシングであるなら別に変えたっていいんじゃないか。やってみて、だめだったら戻せばいいだけの話だ。明日からは15時くらいに飲んでみようか。でもそしたらこの日記は書けなくなるかもしれない。ううむ、ここは悩むところだ。早朝か? あるいは、夕方か?

夕方。コメダで目の前の席に座る20歳前後の男の子の可愛さが過ぎる。コーヒーアイスクリームを頼んでいたのだけど、商品が来た瞬間のニヤけ顔、食べる前に手を合わせちいさく「いただきます」をする育ちの良さ。届いてから食べ終わるまでのノンストップさ。あの迂闊に社会の存在を忘れる感じがいいんだろうな、可愛げなんだろうな、などと思う。

明日は、いくのさんと研究会立ち上げについて打合せ。アートと福祉の双方にまたがるような、そんな研究をゆるやかに自由にやっていきたい。芸術行為、創作行為が創作者自身に及ぼす影響について、というのが大きなテーマになるんじゃないかと考えている。
わたし自身がここ最近読んだ関連本でいえば、『生きていく絵』『ただ、そこにいる人たち』『自分の薬をつくる』『芸術の中動態』『料理と利他』、あとは『革命のヴィゴツキー』も理論的な裏付けとして必要になってくるんじゃないかと思っている。

『革命のヴィゴツキー』の訳者あとがきを読む。平凡で日常的で「不自然」な革命的実践について書かれている。
考えてみれば脚本を書くという行為はその典型の一つである。わたしは毎年保育園の子どもたちと創作をしているが、彼らにセリフの書き方などを教えたら年長の子などは自分でスラスラと脚本を書いてしまったりする。だから書くこと自体は子どもでもできる平凡で日常的な行為である。
であると同時に、「不自然」な行為でもある。わざわざ脚本にするよりも、あるいはわざわざ演劇として作品にするよりも、演じることを主眼とするのならままごとでこと足りる。シチュエーションを与えて自由に話させたらいい。
でもなぜわざわざ、その不自然な行為が重要なのか。それはわたしたちが手にしているものを自ら組み替える「革命的実践」なのである。それをすることで「これまでになかった何か」を引き起こす可能性が生成するのである。
自分の持っている考え方、価値観、認識のパターンに、「不自然」が介入することで一旦崩壊し、再組織化される。とにかくおしゃべりが上手な子でも、ままごとでは主導権を握り引っ張っていく子でも、4〜5回往復する程度の二人芝居のセリフを考え覚えて表出する、という手続きをさせると途端に固まってしまうことがよくある。
枠のない自由なやりとりでは意識化されなかった部分が顕在化される。それがどういう部分なのかはまだ言語化できていないため今後の検討課題である(論文みたい)。

わたしが脚本について学び始めてもっとも変化が起こったのは、映画の見方である。作者というより視聴者として大いなる影響を受けた。
それまでストーリーラインにばかり気を取られていたのが、構造物として映画を捉えるようになった。と同時に、さまざまな種類のわかりやすさや面白さが存在することに気づいた。こんなにも豊かだったのか映画超すげー!ってなったのは、視聴者ではなく作り手になろうとする「不自然」な行動からだった。
というわけで芸術行為・創作行為という不自然な革命的実践について研究会では考えていきたい。研究会というより勉強会というべきだろうか。
『革命のヴィゴツキー』364頁、「その目指す先があらかじめ具体的に設定されないまま、まずは実践がはじまる」とある。この研究会自体もそのような位置づけになるだろうし、そしてそれこそがコンセプトにもなるだろう。
あらかじめ定められた何か(=成果)を求めるのではなく、とにかくなんとなく集まってなんとなく考えたことを出し合って、それをなんとなく擦り合わせていく。そういうなんとなくの緩やかで自由な「革命」の場、革命的実践。目指されるべきはその「あり方」の方である。

1月15日(金)

13時30分服薬。
やはり5時間後くらいに眠気が来る。18時20分頃にピーク?運転中だったため危なかったけど、1秒ごとに無理矢理覚醒して目的地にたどり着いた。でもずっとこんな運転続けてたらマジで神経持たんぞ。気分的には楽になるけど、いろいろと不都合多いぞ薬さん。

今日はこれからいくのさんと研究会について打合せ。
眠気で半分に減った目のままこのテキストを書いているが、ミーティング中眠ってしまわないだろうか。この眠気ならあり得る。今日は仕事で疲れたせいで余計に眠気が来てるのか。くわえて、今日は2時半に目が覚めてそこから粘ってみたけどダメで結局3時20分には準備を始めていた。それだ、ねむけの大きな要因は。全部が絡み合っていまここに、わたしの体に眠気がやってきている。
「わたし”は”眠い」ではなく「わたし”に”眠気がやってくる」というような活用をするものをヒンディー語で与格というらしい。能動隊/中動態の対立における中動態もおなじような意味合いである。
わたしに到来する外部。わたしを座として起こる現象。鬱や躁もそういうふうな捉え方が近いのではないか。

「あなたが鬱になるなんて」と結構多くの人に言われる。悩みや問題もいろいろ自分で解消できそうだから、と。
でもわたしはいま外部からはあると見えていたらしいコントロールの能力がどこまでも薄れていっているような、というか、外部は広いのだということに、多様で無限なのだということに、そして自分は有限だということに体で気付かされている。
キリンジの名曲『Drifter』に「鬱が夜更けに目覚めて」というフレーズがある。この歌は基本的に殺伐とした社会に心を病んだ(そこまでいかなくとも確かにげんなりしている)主人公が、それでも大切な人と一緒にいようと誓う歌だ。悪魔が来たりて笛を吹けども、あなたとの関係性は揺らがせない、という強い意志を歌っている。
でもわたしは、それができたらいいよなとは思うけど、それをできる力を維持するのは難しいんじゃないかなんて悲観的に思ってしまう。
この意志がどんなに前向きで素晴らしくとも、体が前を向かない。いうことをきかない。悪魔の笛にまんまと平伏してしまうだろう。
これを「意志が弱い」と責める向きもあろうが、意志なんてすべからく脆弱である。なぜならフィクションだから。外部から個人にむけて引責することを引き受けさせる装置だから。
「意志」という概念が用いられるのはだいたいにおいて「弱い」場面だけである。なにか失敗したり挫折した時に「意志が弱い」と個人で回収させるための言葉なのだ。
なにかに執着するように頑張って目的を達成した人に対して「意志が強い」と賞賛するやり方もあるだろうが、それは意志というより習慣の強さである。継続できるような外部環境のセッティングやスケジュール管理がしっかり行われた結果であり、それをずっと意志で行っているわけではない。
習慣が形成される過程には得てして「享楽」を体験する。反復が享楽を生み、享楽が習慣を生む。その仕組みを有効利用して成果を獲得できれば、どのような分野であっても「意志が強い」という称号を得られるだろう。
この「強い」意志は成果を出したからようやく使い物になったのであって、そうでなかったら、つまり成果が出るまでは潜在的にはずっと「弱い」ままなのである。というわけで『Drifter』はすばらしい曲だけどあんたのようにはなれないよ、という話でした。

ハイデガーは意志を過去に対する憎しみであり切断だと捉えていた。依存症患者などは過去や記憶に紐づいた苦しさから対象に依存してしまう。それは過去や記憶を切断しようとする行為である。薬やアルコールは意志と同じく「切断」の装置だ。
わたしがいま服用している抗精神病薬も例に漏れない。わたしは服薬をはじめて薬が過去の切断であることを身体的に実感している。薬を飲んだらたしかに落ち込まないが、それは感情を和らげているというより、感情を引きずってやってくる記憶の方がブロックされている感覚がある。
普段なら芋づる式にドバドバ出てくる記憶とそれに伴う負の感情。でも薬が効く間は、早い段階でその記憶のつるが切断される。だから落ち込まない。あくまでも私の感覚であり仮説だが、実感としてはそうだ。

今日は服薬が遅かったので切断し損ねて引き摺り出された記憶があった。
今日原点に向かっていた時、外国人のたぶん親子(30歳くらいの男性と、3歳くらいの子ども)が横断歩道を歩いていた。ヨタヨタと歩く子どものペースに合わせるようにゆっくり歩く父親。そのかわいさに、歩行者もドライバーもほっこりしながら見守っている。
という、どこをどう取っても負の記憶なんて思い起こしそうにもない明るいシーンではないか。でもわたしの脳内ではそのまんま消化するなんてことはしない。
この親子に、もし歩行者だったらわたしは声をかけるかな、と考えた。かけるとしたら、英語で? 日本語で? どっちもか。だってここは日本だけど、彼らは日本人ではないの(たぶんアメリカ人だろう)はほぼほぼわかるし、でも「カワイイ」はわかるかも。「かわいい〜、ソー・キュート!」なんて感じで言えば好意的に受け取ってもらえるだろうか。

ということを考えていたら急に記憶がジャンプする。

カナダで友人のコンテンポラリーダンサーのクリエイションを見学させてもらったとき、彼女の同僚から英語で話しかけられたけど、うまく言葉が出てこず、トンチンカンなことを言ってしまった記憶。
別に単語だけでも相手は汲み取ってくれただろうし、わざわざかっこつけて「ちゃんとした英語」なんてしゃべろうとしなくてよかったのに、咄嗟にそれができず、その自分の情けなさに落ち込んだ時のカナダにわたしはいつのまにか居て、目の前の可愛らしい親子に話しかけたいなんて思っていたさっきまでのわたし自身に対して「お前なんかが話しかけんじゃねえよ、英語もロクにできねえくせに」とオラついてしまうのである。なんて不憫。なんでめんどくさい。
こういうことが抑えられるのが薬。そりゃ楽だ。だから依存しちゃうのかもしれない。
わたしは苦しい時はよく運転中にワーって叫ぶんだけど、ひどい時は叫びすぎて(声量も回数も)ノドを枯らしてしまったこともある。いまノドを枯らしたら、風邪ですか? 熱もあります? もしかして、コロナです? なんて感じになってめんどくさくて困るから最近はわーってやる機会少なくて良かった(そこじゃない)。

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