第2回[1月6日〜1月10日]

2回目の更新。文字数が多い。原稿用紙換算23枚分。これ誰が読むんだマジで。
でも結構なかなかいいこと書いてる気もする。服薬=アウトソーシングという見方とかなかなかいいんじゃないか。あとは『デス・ゾーン』の栗城史多からみうらじゅん論への展開とか。

1月6日(水)

7時5分服薬。
昨日今日と、事務作業を長時間続けられている。これはきっと、「凪」に近づいている証拠なのではないか。躁でも鬱でも、事務はできない。躁だと、椅子に座ってチマチマ入力したりなんてそんな時間がもったいないことやってられるかコチトラこうしている間にもアイデアガンガンやりたいことバンバン溢れまくってるんですが。なもんでこのチマ事務なんぞは宜しくどうぞしていいですか?本気になれば寝ずに1日で仕上げてヒヤシンス。なんてモードに入っているので無理、いや、別にできないわけじゃないんだけど、もうそれどころじゃないわけです本当に。ここでこうしているうちに時間が過ぎて困っている人たちがさらに困ってしまうから、いますぐにわたしのアイデアを周囲に浸透させてこの状況を改善せねば!っていう、冷静になるとなんともおめでたいことを本気で考えてしまっていて、しかもこの話に理解も興味も示さない周囲の人々の低能さと意識の低さに辟易、、、と非常に痛々しい感じになる。それが躁。
逆に鬱の時は、もう無理。仕事なんて無理。もう休ませてください。いいから眠らせてください。わたしはもう家から一歩も出たくないし、いろんな流れを拡散させて収拾つかなくさせたうえで鬱になって仕事できませんなんて、なんて害悪な人間なんだよ、そんなんなら最初から提案なんてするんじゃねえよ、するんだったらちゃんと責任取れよお前それでも社会人かよそんな甘えたこと言ってんじゃねえぞタコ!って自分自身を追い込みながら、俺はダメな人間だモードがどんどん深くなる。それならそのモードから脱出する方法を探さなきゃとなるんだが、その方法は仕事を頑張る、っていうことしか思いつかないわけです結局。だから取り組んででもやっぱり苦しくて休んでこのタコ!ってなって悪化する延々ループ。

自分はいままで、ケアの現場ではナラティヴを重視したい、という想いで働いてきた。それが、クライアントの力になると思っていたから。それは今でも間違ってはいないと思う。ただ単に力量不足だったことと、なんでもかんでもナラティヴに頼ろうとしてしまったことだ。金持ちが、困った時は金で解決すればいいように、なにかしらのリソースを所有しているのなら、それを使って楽になる方法を探したっていいのだ。すべてナラティヴを捉え直して再解釈・再組織化するという、社会構築主義的なやり方だけで現実は動かない。溢れんばかりの「具体物」がある。五感がある。自然がある。解釈がたとえ働かなくても、現実には触れられる。それ自体が「制度」の産物だとは言えるけど、だから何だ?って話にしかならない。たとえばわたしの「好き」は社会的な構築物であることは事実だろう。でも、その目の前の「好き」に触れるときに生まれる時の幸福感や癒しを、わざわざ「制度」に還元する必要はない。つくられた「好き」でも、「好き」は「好き」だ。ブレードランナー2049、KがJに恋をする。機械同士の恋。プログラミングの恋。でもそうだとしても、彼らの間の愛情は嘘だと言えるか? 作り物でも嘘ではない。虚構と実在は共存する。中間領域(©️ウィニコット)か。つまり、解釈をどこで止めるか、という問題だ。判断停止。エポケー。そうか、現象学の問題か。
判断停止し事務作業。日々を運用しよう。そして「暇」を作り出す。この暇こそがわたしが最も大事にすべきものだ。すべての楽しみの源泉こそが暇なのである。湧き出るアイデアややりたいこと、時間をどう使うかという計画、うまくやれたという快感。すべては暇からやってくる。

1月7日(木)

服薬忘れ。
朝や昼は、薬を飲まなかった影響は特に感じなかったし、事実飲まなかったこと自体も忘れていた。つまり思い出すほど落ち込むことがなかった。しかし夜。21時頃。車の運転中に急に記憶が湧いてきて、「みんな進んでるんだな」「時間て過ぎてるんだな」と感じ、一転「俺の時間はずっと停滞しているなぁ」となってしまった。そんなはずはないのに。わたしの時間もちゃんと進んでいるのである。それを自覚する意味においては結婚したことは良いことなのかもしれない。

斎藤環のTwitterより|
僕の持論だけど、医療人は社会のことより目前の患者の利益を優先するのが医療倫理だ。年金の診断書書く時に福祉財源のことなんか考えない。それが公益と対立することもあるだろうけど、そこを調整するために政治があるわけで。精神疾患でも感染症でも同じこと。公益優先の医者にはかかりたくないな。

引用元

「自殺をしない、させない」坂口恭平が〈いのっちの電話〉で2万人の声を聞く理由|【対談】斎藤環×坂口恭平|https://fujinkoron.jp/articles/-/3015

↑ 読んだ。いい対談。坂口恭平の実践(自己治療)に、斎藤環が医者の立場から高い評価をしていることに、安心を得る。わたしの躁鬱治療にとって最高のモデルケースがいて、それを支持している精神科医がいる。それだけで、とても安心だ。「スケール」や「論文」がなくとも「エビデンス」である。これがとても助かる。マジメ人間のわたしには、こういうお墨付きというか裏付けというかがないとほんとに不安なのである。なんて不憫なわたし。
薬飲んでないけど今日は調子がいいのは、スケジュール(しおり)をつくって、それをちゃんとこなせたからだろう。運用状況が良好だったのだ。そうだと調子がいい。これは決して思考停止ではなく、革命的実践なのである。グルグル反省モードに入るのに断固として抵抗するレジスタントな行動なのである。

1日の最後はコメダでの作業。これもちゃんとルーティン化できてきている。今日はこの文章を書いている他に、サイトを開設した。この文章を載せる(公開する)ための場所だ。坂口恭平の躁鬱日記(http://www.0yenhouse.com/sou-utsu-3/)的な感じにしたいってのもある。あのフォーマットだと読みやすいだろう。読ませたいわけではないが、読んで欲しいとは思っている。なんと面倒くさい生き物なのだろうかわたしは。自己嫌悪でこんなに苦しんでいるのに、どこまでも自己愛の塊でもあるのである。

1月8日(金)

6時55分服薬。
「Narrative and Dialogue」を「Narrative, Art, Dialogue」に変更しようと思う。あるいは、そういう部門を増設しようと思う。アートと福祉の文脈を横断的に語れるように、好き放題に対話できるように、そういうサークルを発足させよう。これについては、まずは企画書をつくろう。できれば月に1回は開催したい。メンバーは、いくのさんはまず最優先。ほかにも何名かいるといいな。。。もちっと考えよう。

土井先生と中島先生の対談本『料理と利他』を買った。これは5月に放送予定の某局で制作するオーディオドラマのリファレンスである。もともとは土井先生の『一汁一菜という提案』にわたしが感銘を受けていたからそれをひとつの柱にラジオドラマをつくることになっていた。それが「利他」というキーワードを伴ってこちら側に寄り添ってきてくれた感じ。このドラマは「子ども食堂」的な場所が物語の舞台になるのだが、以前土井先生のTwitterで、子ども食堂をつくりたいとツイートした坂口恭平さんに「それなら、子どもに作ってもらう場所にしたらどうか?」と提案のリプライをして共鳴していた。やはり先生は、美味しいものを食べさせる、などというよりも「つくる」あるいは「料理をする」ことに偉大な力を感じているのではないか。だからこそ、料理本の出版やセルフケアの技法を一般化できるほどのレベルにまで「つくる」の理論を洗練させた坂口さんとの間に共通の理念を提出できるのだろう。料理は鬱に効く。それはほんとにそう思う。作れない時は無理しなくていいが、惣菜を買ってきて皿に盛り付けて食べるだけでもいいのだと思う。かわいい食器を揃えるのは、自らの心を保つのにとても大切なことなのだ。たとえば今朝は、あまり時間もなかったので豪華な朝食などは作れなかったが(といっても豪華な朝食などほとんど作ったことがないが)、レタスにハーブソルトとオリーブオイルをかけただけのサラダと、バターを塗っただけのトースト、それらを平たい丸皿に盛り付け、広げたランチョンマットの上に載せ、皿の傍にミルクが入ったグラスを置く。それだけで、なんか、おしゃれな感じ。この「おしゃれ」は、単に「映え」だけに収斂するものではない。「おしゃれ」を自分でクリエイトしたこの感覚は、自らの生活に確実にプラスなものをもたらす。効果は長続きしないかもしれない。一瞬で消えてしまうかもしれない。でも、ただ自分だけのために「おしゃれ」を施すことは、自らを大事にすること、自らを癒すことである。これをないがしろにして、人を大事にする、人を癒すことは難しいのだと思う。この「自分を大事にする」「自らを癒す」ことの連続こそが、幸福に生きることだといえないだろうか。誰に何を言われようと、自分は大事にされている、自分は癒されている、という感覚を常に持ち続けていられれば、きっと大丈夫な気がする。ともて観念的で楽観的な思慮かもしれないが。鬱の時は、そんな自分が自分を攻撃するようになる。大事にせずに、癒やそうとせずに。言葉でジリジリ自らを追い詰めていく。坂口さんや土井先生のいう「つくる」は、その言葉の刃物を握るガチガチの手を緩ませ、食材という具体物に向かわせる。それら食材や食器と対話をするように、「心地いい」をそれらと共同創造しようとする。料理は一人でやることが多いけど、実際のところそれは、食材・食器・調理器具、それらとのコ・プロダクションなのである。こういうことを書けば書くほど、はやく料理をしたくなってくる。明日は土曜日ですこし時間があるから、土鍋で米を炊いてみよう。とてもとても楽しみだ。明日が楽しみなんて感覚、いつ以来だろうか。今この文章を書きながら、涙がこみ上げてきてこぼれそうになっている。

1月9日(土)

7時服薬。
今日は受診の日。副作用なども見られないことから、すこし薬の量が増えた。
薬とは、アウトソーシングである。それがいまのわたしの暫定的な見方だ。会社でも、自社の能力やコストを鑑みて、外注した方がより大きなベネフィットを獲得できる、という判断を下すことがある。あれと一緒で、自分の認知や記憶や感情や意欲などのリソースを有効利用するためには、めんどくさいこと(苦しくなる、キツくなる)などへの対処を薬にアウトソーシングする。これはまさに「運用」の発想だ。「解釈」の発想だと、その辛さをどう乗り越えるか、みたいなところでウダウダしてしまうところを、「運用」だと外注で一時的に解決する。でも、会社が自社の根幹となる部分は決して外注しないように、わたしの根幹となる部分も薬にアウトソースできない。あくまでも一時的な解決であり、あくまでもサポート的な、あるいは援護射撃的なものである。最も重要な部分は自社が抱える。そこをおろそかにしてはいけない。高コストかつリソース消費が著しいからこそのアウトソーシングであり、そのコストが低減されたり、リソースも豊かであるならば、自社で抱えればいいのである。そうやって「運用」していけばいいのだ。

* * *

今日は土鍋で米を炊いた。あの土鍋はいつどんなときに買ったのだっけ? 小さくて、おひとり様用で、だからお米も1合しか炊けなかった。でも、それがかわいくていいよね、なんて微笑ましく思いながら炊き上がりを待っていた。でも初めての土鍋炊きは難しい。水加減を誤り、すこし硬くなってしまった。炊飯器のときよりも少し水を多めに入れたのだけど、それでもまだ足りなかった。もう少し増やさないといけないな。また実験だ。料理というのは、失敗しても翌日以降、はやければその日のうちでリベンジができるからいいな。でももっといいところは、力を抜こうが入れようが、料理は料理だからだ。つまり優劣をつける必要がない。色とりどりの高級フレンチも、白一色の塩おにぎりも、どちらも料理だ。3日間煮込んだトロトロビーフシチューも、3分でできるしょうゆラーメンも、食は食だ。そこにいろんなバリエーションがある。ということは、それだけの可能性がある。わたしは何を美味しいと感じ、なにを喜びを覚え、なにをまた食べたいと思うのか。それともうひとつ、なにをまた作りたいと感じるのか。どんなものを作っている時、あるいはどんな行為をしているとき、わたしは心地よさを感じているのだろうか。それをちゃんと見つけて、たくさん見つけて、ストックしていきたい。それが「解釈モード」から「運用モード」へのズレ、というか転用、というかいいとこどり。いいとこ取りができるということは、うまく生活できているということである。

たとえば料理に関してはどんなことがあるだろうか。お米を洗う時、炊飯器の窯で直接洗うよりも、ざるとボウルを使って洗う方が好きだ。ボウルからざるをあげた時のあの水がジャって切れる瞬間が好きだ。だからいちいち洗い物を増やすようなことをしているのだが、でもわたしは意外と洗い物が好きらしい。たしかに増えすぎたり疲れてる時とかはめんどくさかったりするけど、ある程度のところまで増えるのはあまり苦にならない。米をざるとボウルで洗うという行為によって、洗い物(とくに皿や調理器具にスポンジを押し当てる感覚が好きらしい)という心地よい行為をわたしの世界に余分に1つ増やすことになる。もうひとつ、わたしはトースト用のナイフで食パンをカットするのが好きだ。あのすこーしずつ繊維がほぐれていくのが好きだ。食パン1枚を全部食すことには正直味が単調すぎて飽きてしまうというところもあるのだけど、カットすることで半分になることで美味しいままでパンと別れることができる。そして翌朝心地よい気持ちでふたたび出会うことができる。しかも前日にカットされたもう半分を見て、その日はカットできないけれどもそれはそれでなんかラッキーみたいな、その時短から得られるお得感に喜んでいる側面もある。で、パンついでに言うと、上に塗るバターは事前にレンジで20秒温めて溶かし、まだ焼く前のパンに塗る。これによって全体的に満遍なくバターを塗れた感じになるし、焼き上がる過程で生地の中にバターをふつふつ蒸発させながらも染み込ませていくパンの姿をトースターのガラス越しに見るのが好きだ。この生活の一部、ほんのミクロの部分でもいくらでも記述することができるってことは、生活に興味を持っているってことなのだろう。料理することもそうだし、それをここに書いていくこともやはり重要なことなのだろう。その両輪があって、生活の中の料理はより輝きを増していく。料理をすることも日記をすることも、鬱の時にはいい。これはアウトソーシングできない。自社で死守すべき領域だ。べつに手の込んだものじゃなくていい、ハレの料理ではなく、ケの料理。そこに美しさも豊かさも存分に含まれている。これは完全に土井先生の思想の信者として言っている。まじで『一汁一菜』は名著だな。つくづく。てか、『料理と利他』、読もう読もうとしていながら3日間で一文字も読んでいない。読んでないのにこの本に触発されてここまで書いているという時点で、存分に元は取れているのである。

しかし、こうして日記を書いていると、わたしはつくづく真面目だなと思う。もっとふざけたこととか単純な思いつきとか書けばいいのにって思う(思いつきは書いているけど)。飛躍が少ないな、文章にジャンプ力が足りないなって思う。そう思うのは、鬱の症状なのか。その結果「ああ、俺はダメだ」ってなってしまう。このループ。わかっちゃいるのにやめられない。やめられないとまらない。かっぱえびせん風。これって、人生そのものじゃないか! やめられないとまらない。コントロールが効かないのだ、人生は。そうか、人生とはかっぱえびせんのことだったのだ。ノンフライ。だから飛べないのだ。いや待て、フライはノンでも、ジャンプならいけるはずだ。まだホップくらいだから、もっと練習したら俺だってジャンプも、、、また真面目に「練習」とか言い出している。スキージャンプみたいに、高速で滑走して下っていき、一気に飛び上がる。そうしよう。鬱の有効利用。沈み込みの反動の利用。それだけだとただの躁転だから、そうじゃなくてちゃんと着地するところまでが大ジャンプ。家に帰るまでが遠足。まあた真面目に着地とか言ってる。わしゃ真面目から逃れられん。から今日はこのまんま、行儀悪く文章の最後を荒らしたまんまで終わる。終わるぞ!(ってちゃんと説明しているあたりが真面目)。

1月10日(日)

8時15分服薬。
今日は日曜日。三連休の中日。
新年最初のマッピーとのおしゃべり会。毎週日曜のこの時間が、わたしにとってはとても大切な時間だ。午前中の3時間、コメダで落ち合ってただただおしゃべりをする。それだけ。も10年近く続けているかもしれない。7〜8年くらいだろうか。いやはや、二人とも暇だなぁ。でも暇の大切さがわかる今は、この時間の大切さを以前よりも強く切実に感じている。

今日話したのは、あまり覚えていない。いつもそう。ひたすら喋り続け、終わったら覚えていない。何かしら為になることを話したことだけは覚えているが、内容については、、、。まあでもいくつか覚えているものもある。『デス・ゾーン』という本について。なぜなら実物を持っていって喋ったから。SNSにオシャレな日常の一部を切り取ってアップするとき。日常じゃなくても、何かしらをあげるとき。特に「映える」ものをあげるとき。わたしの関心は、そのレンズの向こうの対象やその行為について向かっているのか、あるいはそれらを「見せる」ことに向かっているのか。そのどちらもあるのは当たり前なのだが、後者の比重が大きくなった場合、下手するとその行為そのものについて意味を見失う危険がある。いくらでもメタに行けてしまうから。もっと「見られるもの」に適した対象を探すようになってしまう。『デス・ゾーン』に描かれる主人公・栗城史多の姿は、「見せる」ことに取り憑かれてた人間の悲しみが立体化されたものであった。山の中で命を失った登山家。彼はきっと、死に場所を探していたのかもしれない。それが最後の「見せる」ことだったのかもしれない。

みうらじゅんも、「見せる」ことに徹底的にこだわってものを収集する。膨大な収集物を一挙に提示し、常に新たなムーブメントの発生を画策している。そんなみうらは以前テレビ番組の企画でストレスチェックをした際、異様なストレスの低さを示していた。晩年は鬱にかかっていたと見られる栗城とみうらの違いはなんだろうか。栗城の場合、「見せる」のは何か。それは彼自身である。彼は彼自身を大きく見せるための方法論を徹底して繰り返していた。いうなれば「自分づくり」である。他者に対して、他者の中に「栗城史多」という人間を構成するためにあらゆる手を尽くしていた。対してみうらは、執着的ともいえるほどに収集するその「物自体」を見せるのである。みうらによればそれらの収集行為は「自分なくし」であるという。ものを集めれば集めるほど、物自体への執着が強まれば強まるほど、自分が失われていく。そこに彼らの違いがある。自分の中に栗城的な部分があるのは否定できないし、それによって苦しんでるのも少なからずあるけど。栗城の苦しさは、彼が提示するシンボリックな姿と、肉体を所持する彼自身との同一化を自他共同で進めていったことにあるのだろう。肥大化していく「自己」に殺されてしまったのではないだろうか。SNSは得てしてその自己肥大化マシンとしての側面を持ってしまっている。

という話までしたのかは覚えていない。というか、後半のように、栗城とみうらの両者を対比して語るなんてことはしていない。でもいいのです。思いついたことを書くのが日記です。でもみうらじゅんの話はした。というか、みうらの話はほとんど毎回している。わたしの影響で友人のマッピーもみうらじゅん信者だ。マッピーとは今日は薬とはアウトソーシングであるという話や「解釈モード」と「運用モード」についての話もした。うむ、思い出してきた。みうらじゅんが、例えば「いやげもの」を収集するとき、高価でトンチキなそれを、嫌々ながら、というか半ば怒りながら購入しているという。それでも集めるのである。そこまでの徹底は、完全に「運用モード」のムーブである。彼は歪な個性を持つ対象を見つけたとき、解釈モードによってそれにバチッとハマるネーミングを編み出し(ほとんどダジャレだが)、そのあとは運用モードで徹底的に収集する。この両モードのラジカルな仕訳が、彼の仕事の偉大さにつながっている。みうらのようになりたい、というのではなく、みうらのようにやりたい、というふうなマインドセットになるのが、彼への憧れ方としては正しいのだろう。彼はネーミングを思いついたときに、すでにエポケーしている。あとは徹底して収集。意外とシンプルである。でもそれを複数の対象に対して同時にやっているからすごいのである。ふむ。やはり偉大だ。みうらじゅん御大。

今日から薬が昨日までの倍になったからか、マッピーと話していても少し頭がボーとしている。不眠気味というのも影響はあるだろうけど、あの感じはきっと薬の作用だと思う。鼻炎薬を飲んだ時の感じに似ていたし。

昨日焼肉屋でさつまいものバターホイル焼き(的な。名前を忘れた)を食べ、美味しくて、そして同時に大学芋が食べたくなり、ネットでレシピ調べ、今日作って食べた。シンプルで美味しいものをお店で食べたとき、わたしはすぐ自分で作りたくなる性質がある。今回はバターホイル焼きはシンプルすぎていつでもできそうなので、大学芋が浮かんできたんだと思う。砂糖:みりん:醤油を2:2:1で入れ、塩をちょっとだけ。というのがレシピにあったタレの分量。家に砂糖がなくてパルスイートがあるので、代わりにそれを。あとはみりんを少し多めに入れたのと、ハチミツも入れた。芋は細長く切ってレンジで5分ほど温め、そのあと同じくらいの時間油で揚げる。そのあとタレを熱したフライパンに芋を投入し絡める。最後にゴマを入れて完成。さらにはバニラアイスも添えて。美味かった。みりんで思い出したことがあるのだけど、今書くととっ散らかるから、あとで覚えてたら書く。

大学芋は夕食時のことだが、昼は土鍋でのお米炊きのリベンジをした。昨日は米1合に対して水200ml入れたが固かったので、今日は220mlにした。まだ少し硬い気もするが、美味しく炊けた。水の量というより、浸水させる時間が不足しているのか? 次はすこし浸水させてから炊いてみよう。実験だ。

みりんのことだけど、でんぱ組の未鈴ちゃんが妊娠した。おめでたい。わたしの推しである。激しいダンスや歌もしばらくは厳しいだろうし、出産と子育てで活動量自体は減ってしまうだろうけど、できればアイドル活動は続けてほしいな(ファンとしての希望を言えば、できればでんぱ組.incとして)。そういうアイドル像を示すことって、やれ恋愛禁止だなんだってやってるおじさん運営アイドルグループに牛耳られる日本の芸能界において、とても大事なメッセージだと思う。

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